「無償教育」を掲げながら、子どもたちの学ぶ機会は家庭の収入と住む地域によって大きく左右される——。東南アジアの成長国として知られるタイは、長年にわたって深刻な教育格差を抱えてきました。かつて「世界一の格差を抱える国」と評されたこの国で、今なにが起きているのか。所得・地域・制度という三重構造から読み解きます。
教育格差とはなにか|タイで問われる「機会の平等」
教育格差とは、生まれ育った家庭環境や居住地域、性別などによって、本来受けられるはずの教育を受けられなかったり、教育の質に差が生じたりすることを指します。「学校に通えるかどうか」という就学機会の差だけでなく、「どんな質の授業を受けられるか」という学習内容の格差も含みます。
タイでは日本と同様に、小学校6年間・前期中等学校3年間・後期高等学校3年間という12年制の基礎教育が敷かれています。2009年からは幼稚園を含めた15年間の教育無償化も導入されました。制度の上では「すべての子どもに教育を」という方針が打ち出されているにもかかわらず、実態はそれとは大きく乖離しています。その理由を三つの構造に分けて見ていきます。
構造①|所得格差が生む「見えない学費」の壁
タイ政府は2009年、公立幼稚園・学校を対象に15年間の教育無償化を実施しました。進学の門戸を広げるための政策でしたが、「無償」の範囲は限定的です。授業料こそ徴収されないものの、教科書・教材費・給食費・制服代などは各家庭の負担として残ります。
民際センターが2022年に公表した調査によると、スリサケット県の中学生の制服費用として政府から1人あたり800バーツの無償予算が充てられましたが、実際に必要な制服類の費用は1,700〜4,500バーツにのぼり、差額は自己負担となりました。 また、タイの平等教育基金(EEF)のデータでは、保護者が負担する授業料・制服・設備費の合計は1人あたり年間平均4,055〜9,042バーツ(約16,000〜36,000円)、旅費・食費などを加えると6,113〜15,076バーツ(約24,000〜60,000円)に達するとされています。
低所得世帯にとって、この「見えない学費」は重くのしかかります。UNICEFの報告によると、2014年時点でタイの0〜17歳の子どもの貧困率は13.8%で、約200万人が貧困ライン以下の世帯で生活していました。2018年にスイスの金融機関クレディ・スイスが発表したレポートでは、タイ国民の上位1%の富裕層が国全体の富の66.9%を保有していることが明らかになり、「世界一の格差を抱える国」として国際的な注目を集めました。2020年時点で富の集中度は40%程度に改善されたとされますが、依然として高水準の格差が続いています。
こうした所得格差の背景には、タイの税制構造があります。日本のような高所得者に高い税率を課す累進課税の仕組みが機能しにくく、富の再分配が進みにくい構造があると指摘されています。質の高い教育を提供するのは多くの場合、高額な寄付金が求められる私立学校です。低所得家庭の子どもたちは、望む教育を受けられないまま10代で就労の道を選ばざるを得ないケースも少なくありません。
構造②|バンコクと農村部の「学びの質」の落差
教育格差を生む二つ目の構造は、地域差です。タイの首都バンコクと地方農村部では、進学率・教師の質・教育インフラのいずれもが大きく異なります。
1999年時点のデータでは、小学校から中等学校への進学率がもっとも高い地域はバンコクの103.1%(留年生を含むため100%超)だったのに対し、南部のナラティワート県では31.1%にとどまり、都市部と農村部で約3倍の差が存在していました。 愛知県バンコク産業情報センターが2023年に公表した資料によると、タイでは少子化の影響に加え、大学院の学生数が2007年を100とした場合に大幅に減少しており、大学院進学率の低下が顕著な課題となっています。
教師の分布にも偏りがあります。優秀な教師・指導経験の豊かな教師は首都圏や都市部の学校に集中しやすく、農村部の学校では教師の絶対数も経験年数も不足しがちです。教師自身が受けてきた教育の質や給与水準の低さも、農村部での教育の質を押し下げる要因として長く指摘されてきました。
英語教育の格差も顕著です。バンコクなど都市部の富裕層が通う学校ではインターナショナルスクールや英語カリキュラムが整備されていますが、農村部ではそうした環境はほとんど整っていません。グローバル化が進む現代において、英語力の差は将来の就職・所得格差にも直結します。
構造③|制度改革の積み重ねとその限界
タイ政府は長年にわたり、教育格差の是正に向けた法制度の整備を続けてきました。1999年に制定された「タイ教育法」では12年間の基礎教育・9年間の義務教育が体系化され、2003年の「児童保護法」では国籍や社会的地位にかかわらず、すべての子どもが平等に教育と福祉を受けられると明記されました。2005年には教育省規定により、国籍を問わずタイに居住する子どもにも基礎教育が保障されるようになりました。
民際センターの報告によれば、タイには教育格差を埋めるべく、首相監督下の平等教育基金(EEF)が設立されており、脆弱な環境にある子どもたちへの支援を広げています。 EEFは経済的に困難な状況にある子どもや学習につまずきを抱える子どもを対象に、奨学金の提供や学校支援、教師向けの指導力強化プログラムなどを展開しており、格差是正への新たな柱として機能しつつあります。
ただし、制度改革が実際の教育機会の平等につながるまでには時間がかかります。税制の累進性の弱さや中央集権的な教育行政の構造は根深く、地方分権の推進は段階的に進んでいるものの、都市部と農村部の格差を一気に縮める力にはなりにくいのが現実です。
2024年以降の動向|デジタル教育と格差の新たな局面
コロナ禍(2020〜2022年)を経て、タイの教育現場でもオンライン学習・デジタルツールの活用が急速に広がりました。しかし、ここでも都市部と農村部の格差は再現されました。スマートフォンやタブレット、安定したインターネット接続を持てない農村部の家庭では、オンライン授業に参加できない子どもが続出し、学習の遅れが深刻化したと報告されています。
愛知県バンコク産業情報センターが2023年に発表したデータでは、タイ全土の各教育段階の学生数が2007年を基準に減少傾向にあり、特に大学院レベルでの進学率低下が顕著となっています。 少子化の影響に加え、経済的理由から上位の教育段階への進学をあきらめる若者が増えている構造は、コロナ禍を経てより鮮明になった面もあります。
一方でタイ政府は、デジタルインフラの地方展開や学校のICT化を進める方針を掲げており、2024年以降も農村部への教育ツール整備が政策課題として位置づけられています。ただし、機器の配備だけでは学習の質は上がりません。使いこなせる教師の養成や、家庭の経済的サポートとセットで取り組むことが、実効性ある格差縮小につながると専門家は指摘しています。
タイの教育と社会課題のつながりについて、より広い視点から考えたい方はこちらもあわせてご覧ください。
日本との比較から見えること|格差は「遠い国の話」ではない
タイの教育格差を日本と比べると、構造の違いが見えてきます。2000年時点のタイの高等学校への進学率は57.4%でしたが、同じ年の日本は97.8%と大きな差がありました。日本では高校進学がほぼ当然とされる社会の中で、タイではその進学自体が所得や地域によって大きく左右されていたのです。
しかし日本でも、教育格差は他人事ではありません。国立大学への進学率や学力テストの結果が親の年収と相関するというデータは複数の研究で示されており、塾や習い事への投資額が学力に影響を与える「教育の私費負担問題」は、日本社会でも議論が続いています。タイの状況は、日本が向き合うべき課題の延長線上にあるとも言えます。
複数の国の状況を並べて見ることで、「教育の機会均等」という理念がいかに実現困難であるかが浮かび上がります。タイの事例は、制度を整えるだけでは格差は縮まらないことを示す重要な参照点となります。
私たちにできること|知ることから始まる支援の形
タイの教育格差に対して、日本に住む私たちが直接できることは限られているように見えるかもしれません。しかし、まず現状を正確に知ることが出発点になります。メディアで報じられる「経済成長するタイ」の裏側で、教育の機会を奪われた子どもたちがいるという事実を知ることは、無関心という最大の障壁を取り除きます。
具体的な行動としては、以下のような選択肢があります。
- UNICEFや民際センターなど、タイの子どもの教育支援を行うNGO・NPOへの寄付や月次支援
- フェアトレード認証商品の購入など、タイ農村部の生産者の所得向上につながる消費行動
- 国際協力や開発教育に関する学習・勉強会への参加
- 日本国内の教育格差問題(子どもの貧困・学習支援)への関与
タイの教育格差は、所得・地域・制度という三重の構造が絡み合った複雑な問題です。一つの政策や支援で解決するものではありませんが、多くの人がこの問題を知り、それぞれの立場でできることをするなかで、状況は少しずつ変わります。まず、身近な一人に「タイの教育格差」の話をしてみるところから始めてみてください。
まとめ|タイの教育格差を生む三重構造と変化の兆し
タイの教育格差は、所得格差・地域格差・制度の限界という三つの構造が重なり合って生じています。2009年の無償化政策や平等教育基金(EEF)の設立など改善への取り組みは続いていますが、格差の完全な解消にはいたっていません。
- タイの教育無償化は「授業料のみ」が対象で、制服・教材・交通費は家庭の自己負担が残る
- バンコクと農村部では進学率・教師の質・英語教育の普及度に大きな差がある
- 2018年のクレディ・スイスレポートで上位1%が国富の66.9%を保有と判明し「世界一の格差国」と評された
- 首相監督下に設立された平等教育基金(EEF)が困難な環境の子どもへの支援を担う新たな柱になっている
- デジタル教育の普及が進む一方、農村部のインターネット格差が新たな学力差を生んでいる
- まず現状を正確に知り、支援団体への寄付や日本国内の格差問題への関与など、できることから行動する


