近年、企業の情報開示において「ダブルマテリアリティ」という新しい概念が急速に注目を集めています。従来の企業中心の視点から脱却し、企業と社会・環境の双方向の影響を考慮するこのアプローチは、持続可能な経営を目指す企業にとって必要不可欠な考え方となりつつあります。
この記事で学べるポイント
- ダブルマテリアリティとシングルマテリアリティの明確な違い
- 企業がダブルマテリアリティを導入すべき具体的な理由
- 実際の評価方法と導入時に注意すべきポイント
ダブルマテリアリティとは何か?基本的な定義
ダブルマテリアリティとは、企業の重要課題(マテリアリティ)を2つの視点から評価する考え方です。具体的には、「環境・社会が企業に与える財務的な影響」と「企業活動が環境・社会に与える影響」という双方向の関係性を重視します。
この概念を理解するために、まず「マテリアリティ」という言葉から説明しましょう。マテリアリティとは「重要性」を意味し、企業が優先して取り組むべき課題を指します。従来は主に投資家の関心事である財務的な影響に焦点を当てていましたが、ダブルマテリアリティではより幅広い視点で重要性を判断します。
従来のシングルマテリアリティとの違い
シングルマテリアリティは、環境・社会の変化が企業に与える財務的な影響のみに着目する一方向的な考え方です。例えば、気候変動による異常気象が企業の工場操業に与える損失や、労働力不足が企業の人件費に与える影響などが該当します。この視点では、主に投資家の関心事である「企業の財務パフォーマンスへの影響」が重視されます。
一方、ダブルマテリアリティでは、シングルマテリアリティの視点に加えて、企業が環境・社会に与える影響も同等に重要視します。具体的には、企業の温室効果ガス排出が地球温暖化に与える影響や、企業の雇用創出が地域社会に与える貢献などです。このアプローチにより、投資家だけでなく、従業員、顧客、地域社会など多様なステークホルダーの関心事も考慮されるようになります。
2つの視点で重要性を判断する理由
ダブルマテリアリティが注目される理由は、企業と社会・環境の相互依存関係がより深刻になっているからです。現代の企業は、社会や環境から様々な恩恵を受けて事業を行う一方で、その活動が社会や環境に大きな影響を与えています。
例えば、製造業の企業を考えてみましょう。この企業は水資源を利用して製品を製造しますが(環境から企業への影響)、同時に排水によって水質に影響を与える可能性があります(企業から環境への影響)。従来のシングルマテリアリティでは前者のみに注目していましたが、ダブルマテリアリティでは両方の影響を重要課題として認識し、対策を講じることが求められます。
ダブルマテリアリティが注目される背景
ダブルマテリアリティという概念が急速に普及している背景には、世界的なサステナビリティ意識の高まりと、それに伴う規制強化があります。特に2019年に欧州委員会が公表した「非財務情報開示指令に関するガイドライン」において、ダブルマテリアリティの考え方が明確に示されたことが大きな転換点となりました。
この流れは、企業の社会的責任がより重視される時代の到来を象徴しています。気候変動、人権問題、格差拡大など、現代社会が直面する課題の解決において、企業の果たす役割が極めて重要になっているのです。
EUの非財務情報開示指令が与えた影響
欧州連合(EU)は、ダブルマテリアリティの概念を世界で最初に制度化した地域です。2024年に発効した企業サステナビリティ報告指令(CSRD)では、EU域内で事業を行う約5万社の企業に対してダブルマテリアリティに基づく情報開示が義務付けられました。
この規制の特徴は、従来の任意開示から義務開示への転換です。企業は自社の事業が環境・社会に与える正負両方の影響を詳細に分析し、報告することが求められるようになりました。例えば、化学メーカーであれば、製品が消費者の健康に与える影響や、製造過程での環境負荷について具体的なデータとともに開示する必要があります。
さらに重要なのは、この規制がEU域外の企業にも影響を与えていることです。EU市場で事業を展開する日本企業も、現地法人を通じてCSRDの対象となる可能性があり、グローバル企業にとってダブルマテリアリティへの対応は避けて通れない課題となっています。
日本企業にも広がるダブルマテリアリティ
日本においても、ダブルマテリアリティの考え方は徐々に浸透しています。経済産業省は「サステナビリティ関連情報開示と企業価値創造の好循環に向けて」という報告書の中で、ダブルマテリアリティの重要性に言及しており、日本企業にとっても無視できない概念となっています。
金融庁も有価証券報告書における記載要件の見直しを進めており、2023年3月以降の事業年度からはサステナビリティ情報の開示欄が新設されました。これにより、日本企業もより包括的な非財務情報の開示が求められるようになっています。
実際に、野村総合研究所などの先進的な日本企業では、既にダブルマテリアリティの考え方を取り入れたマテリアリティ分析を実施しています。このような企業では、自社の長期経営ビジョンの策定において、財務面の影響だけでなく、ステークホルダーからの期待や環境・社会への影響も総合的に考慮した重要課題の特定を行っています。
ダブルマテリアリティの具体的な評価方法
ダブルマテリアリティを実際に企業経営に取り入れるためには、体系的な評価プロセスが必要です。欧州サステナビリティ報告基準(ESRS)では、「インパクトマテリアリティ」と「ファイナンシャルマテリアリティ」という2つの軸で評価を行い、いずれか一方または両方がマテリアル(重要)と判断された場合に、その課題について開示することが求められています。
この評価プロセスでは、まず企業の事業活動全体を俯瞰し、関連するステークホルダーを特定します。その上で、各課題について財務的影響と環境・社会的影響の両面から重要度を測定していきます。重要なのは、この評価が一度限りの作業ではなく、事業環境の変化に応じて定期的に見直される「ダイナミック(動的)」なプロセスであることです。
財務的マテリアリティの評価ポイント
財務的マテリアリティでは、サステナビリティ課題が企業の財務パフォーマンスに与える影響の大きさを評価します。具体的には、収益機会の創出、コスト削減効果、リスクの軽減といった観点から分析を行います。
例えば、再生可能エネルギーへの転換を検討している製造業企業の場合、初期投資コストと長期的な電力費削減効果を比較検討します。また、カーボンニュートラル規制の強化により、従来の化石燃料依存が将来的にどの程度の財務リスクをもたらすかも重要な評価要素となります。
評価の際には、影響の規模(どの程度の金額的インパクトがあるか)、発生可能性(そのリスクや機会が実現する確率)、時間軸(短期・中期・長期のどの段階で影響が現れるか)の3つの軸で総合的に判断することが重要です。これにより、限られた経営資源を最も効果的な分野に集中させることができます。
環境・社会的マテリアリティの評価ポイント
環境・社会的マテリアリティでは、企業活動が外部の環境や社会に与える正負両方の影響を評価します。この評価では、ステークホルダーの視点を重視し、企業が社会にとってどのような価値を提供し、どのような負荷を与えているかを客観的に分析します。
具体例として、食品メーカーが行う評価を考えてみましょう。環境面では、原材料調達による森林破壊への影響、製造過程での水使用量、包装材による廃棄物の発生などが評価対象となります。社会面では、サプライチェーンにおける労働条件、製品の安全性、地域雇用への貢献などが重要な要素です。
評価プロセスでは、影響を受けるステークホルダーとの対話が不可欠です。消費者、従業員、地域住民、NGOなど多様な関係者から意見を収集し、企業側の認識とのギャップを把握することで、より客観的で包括的な評価が可能になります。また、業界標準や国際的なガイドラインとの比較も重要な判断材料となります。
企業がダブルマテリアリティを導入するメリット
ダブルマテリアリティの導入は、企業にとって単なる規制対応以上の価値をもたらします。この包括的なアプローチにより、企業は従来見落としていたリスクや機会を発見し、より持続可能で強靭なビジネスモデルを構築することができるのです。
特に重要なのは、ダブルマテリアリティが企業の長期的な競争力向上に直結することです。短期的な財務指標だけでは捉えきれない企業価値の源泉を明らかにし、ステークホルダーとの信頼関係を強化することで、持続的な成長基盤を築くことができます。
投資家以外のステークホルダーとの関係強化
ダブルマテリアリティの最大のメリットの一つは、投資家以外の多様なステークホルダーとの関係を深められることです。従来のシングルマテリアリティでは主に投資家の関心事に焦点を当てていましたが、ダブルマテリアリティでは従業員、顧客、サプライヤー、地域社会などの幅広い関係者の期待や懸念に対応できます。
例えば、優秀な人材の確保が課題となっている企業では、働きがいのある職場環境の整備や多様性の推進といった社会的マテリアリティへの取り組みが、採用力向上に直結します。また、消費者の環境意識が高まる中で、製品のライフサイクル全体での環境負荷軽減に取り組むことで、ブランド価値の向上と市場シェアの拡大を実現できます。
さらに、地域社会との良好な関係は、事業継続性の確保において極めて重要です。地域の雇用創出や文化保護に貢献する企業は、地域住民からの支持を得やすく、事業拡張時の合意形成がスムーズに進む傾向があります。このように、ダブルマテリアリティは企業のソーシャルライセンス(社会的な事業許可)の獲得と維持に大きく貢献します。
長期的な企業価値向上への貢献
ダブルマテリアリティの導入により、企業は短期的な利益追求から脱却し、持続可能な価値創造モデルを構築できます。環境・社会への正の影響を生み出す取り組みは、多くの場合、中長期的には企業の競争力強化につながるからです。
具体的には、サーキュラーエコノミー(循環経済)への転換により、資源効率の向上とコスト削減を同時に実現できます。また、従業員の健康とウェルビーイングに投資することで、生産性向上と離職率低下という形で投資リターンを得ることができます。
さらに重要なのは、ESG投資の拡大により、ダブルマテリアリティに基づく包括的な情報開示が投資家からも高く評価されるようになっていることです。透明性の高い開示を行う企業は、資金調達コストの低減や株価の安定化といった財務的メリットも享受できます。このように、ダブルマテリアリティは企業価値の向上を通じて、すべてのステークホルダーに利益をもたらす好循環を生み出すのです。
ダブルマテリアリティ導入時の注意点と課題
ダブルマテリアリティの導入は多くのメリットをもたらしますが、実際の導入プロセスでは様々な課題に直面することも事実です。特に、従来のシングルマテリアリティに慣れ親しんだ企業にとって、評価軸の拡大と複雑化は大きなハードルとなります。しかし、これらの課題を適切に理解し、段階的なアプローチを取ることで、スムーズな移行が可能になります。
成功の鍵は、ダブルマテリアリティを単なる報告要件として捉えるのではなく、企業経営の質を向上させる機会として位置づけることです。そのためには、経営層のコミットメントと全社的な理解の醸成が不可欠となります。
従来の開示体制からの移行における課題
最も大きな課題の一つは、データ収集と分析体制の構築です。従来の財務情報中心の開示では、主に経理財務部門が担当していましたが、ダブルマテリアリティでは環境、人事、調達、品質管理など多部門にわたる情報の統合が必要になります。
例えば、サプライチェーン全体での人権リスク評価を行う場合、調達部門が把握する取引先情報、人事部門が管理する労働条件データ、CSR部門が収集する第三者監査結果など、複数の部門が保有する情報を統合的に分析する必要があります。これまで縦割りで管理されていた情報を横断的に活用するためには、新たなシステムやプロセスの構築が求められます。
また、ステークホルダーエンゲージメントの実施も大きな挑戦です。従来は主に投資家との対話に重点を置いていた企業も、消費者、地域住民、NGOなど多様な関係者との継続的な対話が必要になります。それぞれのステークホルダーグループに適した コミュニケーション手法を開発し、得られた意見を経営判断に反映させる仕組みづくりが重要となります。
効果的な導入のためのポイント
ダブルマテリアリティの効果的な導入には、段階的なアプローチが有効です。まず、現在の開示内容を棚卸しし、既存の取り組みの中でダブルマテリアリティの要素を含むものを特定することから始めましょう。多くの企業は、意識しないうちに既にダブルマテリアリティの一部を実践している場合があります。
次に重要なのは、社内の推進体制の整備です。経営企画、IR、CSR、リスク管理など関連部門の代表者で構成される横断的なプロジェクトチームを設置し、定期的な情報共有と意思決定のプロセスを確立することが推奨されます。また、外部専門家やコンサルタントの知見を活用することで、導入初期の試行錯誤を短縮できます。
さらに、業界のベストプラクティスや国際的なガイドラインを参考にすることも有効です。GRI(グローバル・レポーティング・イニシアティブ)基準やTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)提言など、既存のフレームワークとの整合性を保ちながら、自社独自のマテリアリティマップを作成することで、効率的で実用的な評価システムを構築できます。
まとめ|持続可能な企業経営に向けて
ダブルマテリアリティは、現代企業が直面する複雑な社会課題に対応するための重要なツールです。従来のシングルマテリアリティが企業への財務的影響のみに焦点を当てていたのに対し、ダブルマテリアリティでは企業が社会・環境に与える影響も同等に重視します。この双方向の視点により、企業は投資家だけでなく、従業員、顧客、地域社会など幅広いステークホルダーとの関係を強化できます。
ダブルマテリアリティの導入により、企業は短期的な利益追求から脱却し、持続可能な価値創造モデルを構築することができます。ESG投資の拡大や規制強化の流れを考慮すると、ダブルマテリアリティへの対応は今後ますます重要になるでしょう。
導入プロセスでは、データ収集体制の整備やステークホルダーエンゲージメントの実施など、様々な課題に直面することもありますが、段階的なアプローチと全社的な取り組みにより、これらの課題は克服可能です。重要なのは、ダブルマテリアリティを単なる報告要件として捉えるのではなく、企業の競争力向上と社会価値創造を両立させる戦略的なツールとして活用することです。
持続可能な社会の実現に向けて、企業の果たす役割はますます重要になっています。ダブルマテリアリティの考え方を取り入れることで、企業は社会の期待に応えながら、同時に自社の長期的な成長を実現することができるのです。
参照元
・BlueDotGreen
https://www.bluedotgreen.co.jp/column/esg/materiality/
・ReChroma
https://rechroma.co.jp/column/sustainability/materiality-double
・KPMGジャパン
https://kpmg.com/jp/ja/home/insights/2024/08/sustainable-value-csrdesrs.html
・PwC Japanグループ
https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/prmagazine/pwcs-view/202502/54-06.html
・野村総合研究所
https://www.nri.com/jp/sustainability/materiality/index.html
・株式会社aiESG
https://aiesg.co.jp/topics/report/240201_materiality/
・東京海上ディーアール
https://www.tokio-dr.jp/publication/report/riskmanagement/riskmanagement-364.html