排出量取引は、国が企業ごとに温室効果ガスの排出枠を割り当て、その枠の範囲で排出を収めるよう促す仕組みです。日本ではこの制度への参加が、2026年度から一定規模以上の企業に法律で義務づけられました。GX(グリーントランスフォーメーション)政策の柱である排出量取引は、企業が自主的に参加する試行段階を終え、義務参加の段階に入っています。
ただ、制度が動き出した今も「結局どの企業が対象なのか」「排出枠はいくらで取引されるのか」「家計には関係するのか」は分かりにくいままです。この記事では、制度の中身を押さえたうえで、よくある誤解、価格の仕組み、海外や東京都との違い、そして対象外の私たちにできることを順に整理します。
排出量取引の義務化で、2026年度に何が始まったのか
2025年2月25日に閣議決定・国会提出され、同年5月28日に参議院本会議で可決・成立したGX推進法の改正によって、排出量取引制度が法律に位置づけられました。改正法は2026年4月に施行され、2026年度から制度への参加が義務になっています。
これまでの試行から義務参加へ
2023年度から2025年度までは、GXリーグに参加する企業が自主的に取り組む試行段階(第1フェーズ)でした。2026年度からの第2フェーズでは、条件を満たす事業者は参加するかどうかを選べません。経済産業省は、政府が一定の基準で排出枠を割り当て、事業者が毎年度、排出実績と同じ量の枠を期限までに保有する仕組みだと説明しています。
日本の削減目標と、世界の現在地
制度の背景には、日本の中長期目標があります。日本は2025年2月に、2035年度に2013年度比60%、2040年度に同73%の温室効果ガス削減を目指すNDC(国が決める貢献)を国連に提出しました。2030年度の46%削減と、2050年のネットゼロをつなぐ道筋です。
世界の状況は厳しいままです。国連環境計画(UNEP)の「排出量ギャップ報告書2025」によると、2024年の世界の温室効果ガス排出量はCO2換算で577億トンと過去最高で、前年から2.3%増えました。各国の現行の目標が守られても今世紀末の気温上昇は2.3〜2.5℃になりうるとされています。国内の制度が、この差を縮める手段の一つとして位置づけられている点は押さえておきたいところです。
段階的に広がる設計
排出量取引は一度に完成する制度ではありません。2028年度に化石燃料賦課金が始まり、2033年度ごろには発電部門で有償のオークションが始まる予定で、段階的に範囲を広げる設計です。この全体像は後の節で詳しく見ます。
対象は誰か|10万トン基準と初年度のスケジュール
「義務化」という言葉から、すべての企業に関わる話に見えがちですが、実際の対象はかなり絞られています。
対象になる条件
対象は、CO2の直接排出量(Scope1)が、直近3事業年度の平均で年間10万トンを超える事業者です。対象は300〜400社程度で、日本の排出量の約6割をカバーするとされています。工場や発電所などを持つ、鉄鋼、化学、セメント、電力、石油といった素材・エネルギー関連の大規模排出者が中心と見られます。
初年度は準備の年
初年度の2026年度は、特例的なスケジュールです。4月1日からCO2の直接排出量の計測・算定を始め、制度対象の届出と移行計画の提出は9月30日が期限とされています。つまり対象企業は、すでにその届出を終えたか、終えるべき時期を過ぎたところにいます。排出目標量の届出と排出枠の割当ては、2027年度に行われる予定です。
移行計画には、2030年度までの削減目標を含める必要があります。排出枠の取引市場は、2027年秋ごろの開設が見込まれています。
排出枠は無償で割り当てられる
排出枠は、当面は無償で割り当てられます。業種ごとの特性を踏まえたベンチマーク(生産量あたりの排出の基準値)に、過去3年度(2023〜2025年度)の生産量などの平均を掛けて算定する方式が基本です。ベンチマークを設定しにくい業種には、基準年度の排出量に一定の削減率を掛けるグランドファザリング方式が使われます。経済学者の有村俊秀氏(早稲田大学)は、約9割がベンチマーク方式になるとされると、日本経済新聞の「経済教室」への寄稿で紹介しています。
よくある誤解を整理する|義務化で何が「違う」のか
制度のニュースには、読み違えやすい点がいくつかあります。次の3点は特に、後から混乱の原因になりやすい部分です。
誤解1「すべての企業が対象になる」
対象が300〜400社程度である以上、中小企業や小売、サービス業の多くは直接の対象になりません。ただし、対象企業と取引している会社は、排出量のデータ提供や削減への協力を求められる可能性があります。「対象外だから無関係」とも言い切れない点が、この制度の分かりにくさです。
誤解2「排出するたびにお金を払う制度だ」
当面は排出枠が無償で割り当てられるため、枠の範囲内であれば追加の支払いは生じません。お金が動くのは、枠が足りなくなった企業が不足分を市場などで確保するときです。枠が余った企業は、余りを売ることもできます。削減が進んだ企業が有利になる設計で、単純な課税とは性格が違います。
誤解3「枠を買えば削減しなくてよい」
枠の不足分を確保できなければ、不足分に応じた金銭負担(未償却相当負担金)が生じます。その額は、参考上限取引価格の1.1倍で算定される予定とされています。さらに、対象企業には2030年度までの削減目標を含む移行計画の提出が求められます。枠の売買は補助的な手段であり、設備更新や燃料転換といった実際の削減投資が前提になっています。
価格の幅と流動性|上限4,300円・下限1,700円は何を意味するか
排出枠の価格は、企業の投資判断を大きく左右します。日本の制度は、価格が極端に動かないよう幅を設けている点が特徴です。
2026年度の価格帯
2026年度の参考上限取引価格はCO2 1トンあたり4,300円、調整基準取引価格(下限の目安)は1,700円と設定されています。価格が上限に近づいたときは枠の供給を増やし、下限を割り込みそうなときは政府が枠を買い入れる「リバースオークション」で調整する想定です。この幅の中で価格が形成されることで、企業は将来の費用を見通しやすくなります。
見えている課題
課題は、市場が十分に機能するかどうかです。有村氏は、韓国で流動性の確保が課題になっていることを挙げ、金融機関の参加促進などが重要だと指摘しています。下限を維持するための買い入れ方法も、具体化はこれからです。
価格水準は、中国や韓国より高く、EUの取引価格(1万円相当)より低いとされています。また、フェーズ2の制度が、パリ協定に基づく排出削減目標(NDC)と整合しているかは十分に議論されていない、という指摘もあります。
海外や東京都と比べて見える、日本の制度の特徴
日本の制度を理解するには、先行する制度との違いを知っておくと役に立ちます。
EUは20年近い運用で排出が半減
EUは2005年に排出量取引制度(EU ETS)を始めました。欧州環境機関(EEA)によると、制度の対象となる固定施設(発電所や工場など)の排出量は、2005年から2024年にかけて51%減りました。2024年は前年比で7%の減少です。ただし減少の要因は取引制度だけではなく、石炭から低炭素の燃料への転換や再生可能エネルギーの拡大、景気や燃料価格の変動なども含まれると整理されています。
東京都は2010年度から条例で運用
国内にも先行例があります。東京都は2010年度から、条例に基づくキャップ&トレード制度を運用してきました。対象は、前年度のエネルギー使用量が原油換算で年1,500キロリットル以上の事業所です。2025年度からは第四計画期間(2025〜2029年度)に入っています。東京都の制度が主にビルなどの事業所を対象とするのに対し、国の制度は排出量の大きな事業者を事業者単位で捉える点が違います。
日本型の特徴
比べてみると、日本の制度は次のように位置づけられます。
- 初期は全量無償で、排出枠の無償割当から出発する
- 価格の上限と下限を設け、急な変動を抑える
- 発電部門の有償化は2033年度ごろと、段階を踏む
急激な負担増を避けて産業界の投資を促す設計といえます。一方で、削減の実効性は、割当の厳しさと市場の機能にかかっています。
2028年度以降に起きること|家計とのつながり
2026年度の義務化は「第一歩」にあたり、その先に2つの課金制度が予定されています。
化石燃料賦課金は2028年度から
2028年度から、石油・石炭・天然ガスなど化石燃料の輸入事業者等に対し、燃料に由来するCO2の量に応じた化石燃料賦課金が徴収されます。課金の相手は輸入事業者等ですが、最終的には電気代やガス代、ガソリン代などに転嫁される見通しです。制度が直接かかわらない家庭にも、間接的に影響が及ぶ可能性があります。
発電事業者の有償オークションは2033年度から
2033年度から、発電事業者に対して排出枠の一部が有償で割り当てられます。割当量や単価は入札方式(有償オークション)で決まり、事業者は量に応じた特定事業者負担金を支払います。発電の脱炭素化を進める力になる一方、電気料金への影響は注視が必要です。
暮らしの支援策も並行して進む
政策は家庭向けにも広がっています。環境省などは、断熱性能の高い住宅や、ZEH(ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス)水準を大きく上回る「GX志向型住宅」の導入を支援しています。国民運動としては、脱炭素につながる新しい豊かな暮らしを創る「デコ活」も進められています。
対象外でも関係ある|私たちが秋の今できること
対象企業が数百社でも、制度は働く場所や暮らしの選択に静かに届きます。大きな行動を急ぐ必要はなく、次のような身近なところから確かめられます。
勤務先や取引先の動きを見る
勤務先が対象企業か、対象企業の取引先であれば、排出量の算定や報告を求められる場面が増えるかもしれません。社内で「自社のCO2排出量は把握されているか」「取引先からデータ提供の依頼はあるか」を、一度確認してみる価値があります。
暖房シーズン前に家庭でできること
10月の今は、暖房を使い始める前の準備に適した時期です。窓の断熱シートや厚手のカーテンで、冬の暖房負担を軽くできます。電力会社の再生可能エネルギー由来のプランを比べる、買い替え時に省エネ性能の高い家電を選ぶといった判断も、将来の化石燃料賦課金の影響を和らげる備えになります。
ニュースの見方を一つ持つ
今後は「排出枠の取引価格」「市場開設」「割当の水準」といったニュースが増えます。そのときは、対象は誰か、価格は上限と下限の幅のどこにあるか、削減投資につながっているか、の3点を見ると、情報を整理しやすくなります。
まとめ
2026年度から、一定規模以上のCO2を排出する企業にとって、排出量取引は法律に基づく義務になりました。対象は300〜400社程度ですが、排出量の約6割をカバーするとされ、制度の影響は取引先や電力・燃料の価格を通じて広く及びます。初年度は届出と移行計画の準備にあたり、本格的な枠の割当と市場の開設は2027年度に控えています。
制度は段階的に進みます。価格は4,300円と1,700円の幅で調整され、2028年度には化石燃料賦課金、2033年度ごろには発電部門の有償オークションが始まる予定です。一方で、市場の流動性や、削減目標との整合には課題が残っています。制度が実際に排出削減につながるかは、今後の割当と運用次第です。
私たち一人ひとりにできることは、勤務先や暮らしの中で、エネルギーの使い方を見直すことです。まず1つだけ、冬の暖房シーズン前に、窓まわりの断熱を試してみてください。
- 義務化の対象は直接排出が年10万トン超の事業者で、300〜400社程度、国内排出量の約6割とされる
- 2026年度は届出と移行計画の準備の年で、排出枠の割当は2027年度、市場開設は2027年秋ごろの見込み
- 排出枠は当面無償で、価格の幅は下限1,700円・上限4,300円。流動性の確保が課題
- 2028年度に化石燃料賦課金、2033年度ごろに発電部門の有償オークションが予定されている
- 対象外でも、勤務先の動きの確認や冬前の断熱など、暮らしの中で備えられる
参考文献
- 経済産業省「排出量取引制度」(2026年)
- RIETI(有村俊秀)「始動する日本版排出量取引 排出枠の流動性確保が課題」(2026年)
- trade-log「【2026年度対応】改正GX推進法とは?GX-ETSの対象企業・義務・実務対応を徹底解説!」(2026年)
- みずほリサーチ&テクノロジーズ「「化石燃料賦課金」と「特定事業者負担金」をわかりやすく解説」(2026年)
- 科学技術振興機構 サイエンスポータル「UNEP 排出量ギャップ報告書2025」(2025年)
- 欧州環境機関(EEA)「Greenhouse gas emissions under the EU Emissions Trading System」(2025年)

