世界中の貴重な湿地を守るために1971年に採択されたラムサール条約は、現在171か国が加盟する重要な国際協定です。湿原や干潟、水田まで含む幅広い湿地環境を対象とし、生物多様性の保全と人々の暮らしを両立させる「賢明な利用」という革新的な考え方を提唱しています。この条約がなぜ必要なのか、どのような仕組みで湿地を保護しているのかを詳しく解説します。
この記事で学べるポイント
- ラムサール条約の基本的な目的と世界的な意義
- 湿地の定義と私たちの生活への重要な役割
- 条約の3つの柱と日本の取り組み事例
ラムサール条約とは?基本的な概要と目的
ラムサール条約は、世界の湿地とそこに生息する動植物を国際的に保護することを目的とした条約です。特に水鳥にとって重要な湿地の保全を通じて、地球規模での生物多様性を守ることを主な狙いとしています。
この条約が生まれた背景には、20世紀後半に急速に進んだ湿地の破壊があります。世界各地で工業化や都市化が進む中、湿地は「利用価値の低い土地」として埋め立てや干拓の対象となりました。その結果、過去300年間で世界の湿地の87%が失われるという深刻な状況に陥っていたのです。
正式名称と採択の背景
ラムサール条約の正式名称は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」です。1971年2月2日、イランのカスピ海沿岸の都市ラムサールで開催された国際会議で採択されたため、開催地の名前を取って「ラムサール条約」と呼ばれるようになりました。
条約採択のきっかけとなったのは、多くの水鳥が国境を越えて移動する渡り鳥であることでした。例えば、シベリアで繁殖するツルやガンは、冬になると日本や東南アジアまで数千キロメートルの旅をします。このような渡り鳥を保護するためには、一つの国だけの努力では不十分で、国際的な協力体制が必要だったのです。
条約の目的と重要性
ラムサール条約は、単に湿地を保護するだけでなく、人々の生活と自然保護を両立させることを重視しています。条約では「湿地の保全と再生」「ワイズユース(賢明な利用)」「国際協力」を3つの柱として掲げ、持続可能な湿地管理を推進しています。
現在、この条約には171か国が加盟し、世界中で2,400か所以上の湿地が条約湿地として登録されています。これらの湿地の総面積は約2億5,000万ヘクタールに及び、日本の国土面積の約67倍という広大な規模です。条約は生物多様性保全に関する国際条約の中でも最も早期に採択されたもので、現在の環境保護の取り組みの基礎を築いた先駆的な存在となっています。
湿地とは何か?ラムサール条約で定める湿地の定義
ラムサール条約では、湿地を非常に幅広く定義しています。「天然のものか人工のものか、永続的なものか一時的なものかを問わず、水が滞っているか流れているか、淡水か汽水か塩水かを問わず、沼沢地、湿原、泥炭地又は水域」とされ、さらに「低潮時における水深が6メートルを超えない海域」も含まれます。
この定義には、私たちの身近にある様々な水辺環境が含まれています。山間部の湿原や湖沼はもちろん、河口の干潟、マングローブ林、さらには水田やため池、ダム湖なども湿地として扱われます。つまり、湿地とは「水と陸の境界にある、多様な生物が生息する豊かな環境」と理解することができます。
湿地の種類と特徴
湿地は水の性質や地形によって様々な種類に分けられます。淡水系では、山地の湿原、平地の沼や池、河川とその周辺の氾濫原などがあります。一方、海水や汽水系では、干潟、塩性湿地、マングローブ林、サンゴ礁などが代表的です。
特に注目すべきは、人工的に作られた湿地も条約の対象となることです。日本の水田は世界的に見ても貴重な人工湿地で、多くの水鳥や水生生物の生息地として重要な役割を果たしています。また、ダム湖や遊水池なども、適切に管理されれば野生生物にとって重要な生息地となります。
湿地が果たす重要な役割
湿地は「地球の腎臓」と呼ばれるほど、環境にとって重要な機能を持っています。まず、水質浄化機能があります。湿地の植物や微生物は、水中の汚染物質や過剰な栄養分を吸収・分解し、きれいな水を下流に送る働きをします。
また、洪水や高潮などの自然災害から人々を守る防災機能も重要です。湿地は大量の水を一時的に蓄える天然のダムとして働き、下流域の洪水被害を軽減します。近年、気候変動による極端な気象現象が増加する中、この機能の重要性はさらに高まっています。
さらに、湿地は炭素を土壌に蓄積する能力が高く、地球温暖化の抑制にも貢献しています。世界の湿地は地球上の炭素の約30%を蓄積していると推定されており、気候変動対策の観点からも保全が急務となっています。
ラムサール条約の3つの柱
ラムサール条約は、単に湿地を厳格に保護するだけでなく、人々の生活との調和を図りながら持続可能な管理を進めることを重視しています。この考え方は「保全と再生」「ワイズユース(賢明な利用)」「CEPA(交流・学習・普及啓発)」という3つの柱によって支えられており、これらが相互に連携することで効果的な湿地保全を実現しています。
従来の自然保護では、人間の活動を完全に排除する「聖域型」の保護が主流でした。しかし、ラムサール条約では、地域の人々の暮らしや文化と切り離して湿地を保護することは現実的ではないと考え、より包括的なアプローチを採用しています。
保全と再生
湿地の保全とは、現在ある湿地環境を適切に維持管理し、その生態系機能を将来にわたって保持することを意味します。これには、湿地に生息する動植物の保護、水質の維持、外来種の管理などが含まれます。
再生については、一度失われた湿地を元の状態に戻したり、劣化した湿地の機能を回復させたりする取り組みを指します。例えば、埋め立てられた干潟を復元したり、汚染された湖沼の水質を改善したりする活動がこれにあたります。日本でも、兵庫県の円山川下流域では、かつて失われた湿地を復元する取り組みが進められています。
ワイズユース(賢明な利用)
ワイズユースは、ラムサール条約の最も特徴的な概念の一つです。これは「湿地の生態系を維持しつつ、そこから得られる恵みを持続的に活用すること」と定義されています。つまり、湿地を完全に保護区域にするのではなく、その機能を損なわない範囲で人々が利用することを認める考え方です。
具体的な例として、水田での稲作が挙げられます。水田は人工的な湿地ですが、適切に管理されれば多くの水鳥や水生生物の生息地となります。農家が環境に配慮した農法を実践することで、食料生産と生物多様性保全を両立させることができるのです。
また、湿地での持続可能な漁業、エコツーリズム、伝統的な葦の利用なども、ワイズユースの実践例です。これらの活動は、地域経済の活性化にも貢献し、住民が湿地保全に積極的に参加するインセンティブとなります。
CEPA(交流・学習・普及啓発)
CEPAは、Communication(交流)、Capacity building(能力養成)、Education(教育)、Participation(参加)、Awareness(普及啓発)の頭文字を取った言葉で、湿地保全を社会全体の取り組みとして推進するための重要な手段です。
交流では、異なる立場の人々が湿地保全について話し合い、協力体制を築くことを重視します。例えば、研究者、行政職員、地域住民、NGO関係者などが定期的に会合を持ち、情報共有や課題解決を図ります。
教育面では、学校教育や生涯学習を通じて、湿地の価値や保全の重要性を広く伝える活動が行われています。実際に湿地を訪れて自然観察を行ったり、専門家による講演会を開催したりすることで、より多くの人々に湿地への関心を持ってもらうことができます。
ラムサール条約登録湿地の基準と登録プロセス
ラムサール条約では、どの湿地を「国際的に重要な湿地」として登録するかを判断するため、明確な基準を設けています。これらの基準は科学的根拠に基づいて作られており、世界共通の客観的な指標として機能しています。条約湿地に登録されることで、その湿地は国際的な注目を集め、保全への取り組みが強化されることが期待されます。
登録基準は全部で9つあり、湿地の特性や重要性を多角的に評価できるよう設計されています。一つの湿地が複数の基準を満たすことも多く、それだけその湿地の価値が高いことを示しています。
国際的に重要な湿地の9つの基準
登録基準は大きく3つのグループに分けられます。まず、基準1から3は湿地そのものの代表性や希少性を評価するものです。基準1では、特定の生物地理区域において代表的、希少、または特有な湿地タイプかどうかが問われます。例えば、その地域で唯一残された原生的な湿原や、地球上でも珍しいタイプの塩湖などがこの基準に該当します。
基準2と3は、絶滅危惧種や生物多様性の観点から湿地を評価します。基準2では、絶滅のおそれのある種や群集を支える湿地が対象となり、基準3では、特定の生物地理区域の生物多様性維持に重要な動植物を支える湿地が評価されます。
次に、基準4から6は、動物のライフサイクルにおける湿地の重要性を評価します。基準4では、動植物のライフサイクルの重要な段階を支えたり、悪条件下での避難場所となったりする湿地が対象です。渡り鳥の中継地や、干ばつ時の水鳥の避難場所などがこれにあたります。
最後に、基準7から9は、魚類や水鳥の数的基準による評価です。基準8では、魚類の重要な餌場や産卵場となる湿地、基準9では、湿地に依存する鳥類以外の動物種の個体群を支える湿地が対象となります。基準5と6は水鳥に特化した数的基準で、定期的に2万羽以上の水鳥を支える湿地や、特定種の個体群の1%以上を支える湿地が該当します。
登録までの流れ
ラムサール条約湿地への登録は、各国政府が主体となって進めるプロセスです。日本では、環境省が中心となって候補地の選定から登録手続きまでを行っています。
まず、条約湿地の候補となる湿地について、9つの登録基準のうち少なくとも一つを満たしているかどうかの科学的調査が実施されます。この調査では、生息する動植物の種類や個体数、湿地の面積や水質、周辺環境との関係などが詳細に調べられます。
調査結果を基に、専門家や地域関係者による検討が行われます。この段階では、湿地の保全計画や管理体制についても検討され、登録後の適切な管理が可能かどうかが評価されます。地域住民や関係団体との合意形成も重要な要素となります。
国内での検討が完了すると、政府がラムサール条約事務局に登録申請書を提出します。申請書には、湿地の詳細な情報、満たしている登録基準の説明、保全管理計画などが含まれます。条約事務局による審査を経て、問題がなければ正式に条約湿地として登録されます。
日本のラムサール条約湿地と取り組み
日本は1980年にラムサール条約に加入し、現在53か所の湿地が条約湿地として登録されています。これらの湿地の総面積は約15万5,000ヘクタールに及び、日本の豊かな自然環境の多様性を象徴する重要な場所となっています。日本の条約湿地は、北海道の釧路湿原から沖縄のマングローブ林まで、列島の南北に広がる様々な湿地タイプを含んでいます。
日本が条約に加入した背景には、多くの渡り鳥が日本を中継地や越冬地として利用している現実があります。特に東アジア・オーストラリア地域では、シベリアや中国北部で繁殖した水鳥が、秋になると日本、韓国、東南アジア、オーストラリアへと南下する大規模な渡りのルートが形成されており、日本の湿地はこの「渡りのハイウェイ」において極めて重要な役割を果たしています。
日本が登録している湿地の例
日本初の条約湿地となった釧路湿原(北海道)は、面積約1万3,000ヘクタールの日本最大の湿原です。特別天然記念物のタンチョウの主要な生息地として知られ、約600種の植物と約1,300種の動物が確認されています。湿原の中を蛇行して流れる釧路川とその周辺の湿地は、多様な生態系を育む貴重な環境となっています。
伊豆沼・内沼(宮城県)は、本州最大のガンの越冬地として有名です。毎年10月頃から翌年3月頃にかけて、マガンやヒシクイなど約10万羽のガン類が飛来し、圧巻の光景を見せてくれます。また、夏には美しいハスの花が湖面を覆い、地域の観光資源としても重要な役割を果たしています。
九州の出水ツルの越冬地(鹿児島県)は、ナベヅルとマナヅルの世界最大の越冬地です。毎年1万羽を超えるツルが飛来し、その8割以上が出水平野に集中します。地域住民とツルとの共生の歴史は400年以上に及び、農家による餌場の提供や保護活動が続けられています。
日本の国際協力と貢献
日本は条約への財政的貢献だけでなく、技術協力や人材育成の面でも積極的な役割を果たしています。国際協力機構(JICA)を通じて、「湿地における生態系・生物多様性とその修復・再生」や「マングローブ生態系の持続可能な管理」などの研修を実施し、アジア・太平洋地域を中心とした途上国から多くの研修生を受け入れています。
また、日本は韓国とともに「東アジア・オーストラリア地域フライウェイ・パートナーシップ」の設立を主導し、渡り鳥の保護に関する国際的な枠組み構築に貢献しました。このパートナーシップには現在18か国・地域が参加し、渡り鳥とその生息地の保全に向けた協力が進められています。
水田の生物多様性保全についても、日本は世界的に先進的な取り組みを行っています。2008年の第10回締約国会議では、日本と韓国が共同提案した「湿地システムとしての水田における生物多様性の向上」に関する決議が採択され、水田が重要な湿地生態系であることが国際的に認識されました。
ラムサール条約の課題と今後の展望
ラムサール条約の採択から50年以上が経過した現在でも、世界の湿地は深刻な危機に直面しています。最新の調査によると、世界の湿地は過去300年間で87%が失われ、現在も年間1.5%の割合で減少が続いています。この減少速度は森林の3倍の早さであり、緊急的な対策が求められています。
湿地減少の主な要因は、農地や都市への転換、水資源開発、汚染、気候変動、外来種の侵入などです。特に気候変動の影響は深刻で、海面上昇による沿岸湿地の水没、降水パターンの変化による湿地の乾燥化、海水温上昇によるサンゴ礁の白化などが世界各地で報告されています。
世界の湿地減少の現状
アジア地域では、急速な経済発展に伴う沿岸開発により、多くの干潟やマングローブ林が失われています。中国では過去60年間で湿地面積が約60%減少し、韓国でも干潟の約75%が失われました。これらの湿地は渡り鳥にとって重要な中継地や越冬地であったため、東アジア・オーストラリア地域全体の渡り鳥個体数に深刻な影響を与えています。
アフリカでは、人口増加と干ばつにより、湖沼や湿原の水位低下が問題となっています。チャド湖は過去50年間で面積が90%以上減少し、周辺住民の生活に大きな影響を与えています。南米のパンタナール湿原では、大豆栽培の拡大により湿地の分断と水質悪化が進んでいます。
持続可能な湿地保全に向けて
これらの課題に対処するため、ラムサール条約では新しい戦略的アプローチを採用しています。2016年に採択された「ラムサール条約戦略計画2016-2024」では、「全ての湿地の保全及びワイズユース」を使命とし、「湿地が保全され、賢明に利用され、再生され、湿地の恩恵が全ての人に認識され、価値付けられること」を長期目標として掲げています。
この計画では、湿地の経済的価値の評価と可視化に重点が置かれています。湿地が提供する生態系サービス(水質浄化、洪水制御、炭素貯蔵、レクリエーション等)を経済的に評価し、政策決定者や社会全体に湿地の重要性を訴える取り組みが進められています。
また、気候変動対策における湿地の役割がますます注目されています。湿地は地球上の炭素の約30%を蓄積しており、適切に保全することで温室効果ガスの削減に大きく貢献できます。パリ協定の実施においても、湿地の保全・再生は重要な要素として位置づけられています。
今後は、科学技術の活用による効果的な湿地モニタリング、地域住民の参画を重視した保全活動、民間セクターとの連携強化などが重要な課題となります。特に、持続可能な開発目標(SDGs)との連携により、湿地保全を地域の持続可能な発展と結びつけた統合的なアプローチが期待されています。
ラムサール条約は、人類共通の財産である湿地を次世代に引き継ぐため、今後も国際協力の中核的な役割を果たし続けるでしょう。私たち一人ひとりが湿地の価値を理解し、日常生活の中で保全に貢献することが、豊かな地球環境の維持につながります。
参照元
・環境省 https://www.env.go.jp/nature/ramsar/conv/About_RamarConvention.html
・環境省 https://www.env.go.jp/nature/ramsar/conv/
・外務省 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/jyoyaku/rmsl.html
・環境省 https://www.env.go.jp/nature/ramsar/conv/RamsarSites_in_Japan.html
・ラムサール条約登録湿地関係市町村会議 https://ramsarsite.jp/ab-ramsar/
・環境省 https://www.env.go.jp/nature/ramsar/conv/FAQ.html
・出水ラムサールナビ https://www.ramsar-navi.jp/ramsar/about.html
・環境省 https://www.env.go.jp/nature/ramsar/conv/About_RamsarSite.html