「脱成長」という言葉がニュースでよく取り上げられています。
今まで無条件に良いとされてきた経済的な成長を否定する文脈で使われる「脱成長」という言葉ですが、賛成や反対を声高に唱える記事を読むだけでは、その真意や論点はなかなか理解できません。
そこで、この記事では脱成長論の考え方や、脱成長が注目される背景について解説していきたいと思います。
「成長=善」が疑われなかった、これまでの社会
成長とは、我々が生活する上で、ごく当たり前に追求される基本的な目標です。
赤ちゃんの成長過程で体重が増え、身長が伸びることを喜ぶように、社会や経済の成長とは、社会や経済の規模の物理的拡大や、質的向上を通じて豊かさを享受することにほかなりません。
経済的な豊かさに真っ向から反論する人はいないはずです。
それゆえ我々が生活する社会や経済は、基本的に規模が大きくなり質的向上を「正しいもの(社会の是)」として、組み立てられてきました。
成長を是とする考え方は、経済全体だけでなく、身近な企業経営においてもごく当たり前のことと考えられています。
例えば、何年かに1度策定され、定期的にその進捗が確認される事業計画においても、売上の成長は半ば当然視されています。
なぜなら成長は、配分の原資となる経済的なパイの拡大を通じて、我々に様々な形で物質的豊かさをもたらしてきたからです。
経済成長がもたらす負の影響
企業レベルでの売上成長でも、それらの企業活動の集計として達成される経済全体の成長においても、成長は我々に物質的豊かさをもたらしてきた一方で、様々な社会や経済に対して様々な負の影響をもたらしてきました。
二酸化炭素排出による地球温暖化や、大量のゴミがもたらす環境汚染などがその例です。
我々がこれまで当然視してきた成長そのものを否定する一連の主張は、「脱成長(英語でdegrowth, 仏語でdécroissance )」(論)と呼ばれています。
脱成長論の代表的な論者の一人が、フランスのセルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche)です。
「脱成長主義」の主張とは?
ラトゥーシュに代表される脱成長の重要性を説く人たちは、経済的成長を全てに優先する考え方やそれに基づく市場経済制度の発展が、過剰生産を生み、さらに過剰生産が不可逆的な資源枯渇や再生不可能な環境破壊、そして社会的な不平等の源泉となる過剰消費を生み出している、と主張します。
脱成長の主張の前提となるのが、地球の再生産能力を超えて、我々が過剰に経済成長に重きを置いて生活してきたという点です。
現代の市場経済制度は、過剰な生産と過剰な消費を生み出しているという点で、批判の矛先はグローバル化した資本主義にも向けられます。
それゆえ脱成長を掲げる人たちは、我々人間がこれまでのように過剰消費を追求するのではなく、それに代わって簡素な生活を追求すべきであると主張します。
また、個人主義に基づく過剰な利益動機ではなく、自己が互いに抑制し合い、時として共同で土地や資源や社会経済システムを管理し、話し合うことで限られた地球の資源を有効に活用することを提案しています。
加えて、経済的成長は、不平等を拡大する源泉とも考えています。
「脱成長」が問題提起していることとは?
これまでのように成長路線で社会や経済は進むべきなのか。
そうではなく、そもそも成長なくして社会が成立するように、社会や経済を再設計すべきではないか。
という問題提起を脱成長論の立場に立つ人たちは行っている、と見ることができるでしょう。
確かに資源枯渇や環境問題の問題に目を向けると、当然のことながら今までのように成長一辺倒で社会や経済を運営していくことには限界がありそうです。
しかしその一方で、成長を全面的に否定する脱成長論だけでは問題は解決できないことは明らかです。
SDGsと「脱成長」
この問題は、なじみのある「持続可能な開発目標(Sustainable Developmental Goals)」という表現に見て取ることができます。
この表現の前半にある「持続可能性」と、後半の「開発」は本来相容れないものであり、実は矛盾に満ちた表現です。
なぜなら、これまでの開発や成長は、地球環境の持続可能性や社会の持続可能性を犠牲にしたものであり、逆に環境や社会の持続可能性を前提とすれば、開発や成長は諦めなければならなくなるからです。
脱成長論は、持続可能性を大きく強調し、開発をゼロに近づける、あるいは完全否定する立場と言えるでしょう。
持続可能性を限りなくゼロにすれば、持続可能な開発目標は限りなく従来の成長一辺倒の立場と同じ立場となります。
脱成長は持続可能であったとしても、進歩も発展もない世界です。
他方で、成長一辺倒では地球ももちません。
脱成長論でも成長一辺倒でもないところに、我々が進むべき道がある。
それが「持続可能な開発目標」が目指すべき社会や経済の姿です。
それは環境や社会の持続可能性を維持した上で、社会や経済の発展を目指すという方向性です。
まとめ|私たちが目指すべき方向は?
脱成長は、競争社会や不平等へのアンチテーゼとして、理念上魅力的な部分もあります。
その一方で人口が2100年まで増加し続けることを考えると、人口増大という意味での脱成長は人口抑制策をとる以外には実現不可能です。
脱成長といっても人口増大という意味での成長は、避けて通れないのです。
そもそも我々の社会で市場経済を通じた競争を通じて新たな知や技術が生み出されてきたことを踏まえれば、市場経済のもたらす負の側面のみならず、正の側面にも目を向ける必要がありそうです。
「成長か?脱成長か?」というゼロイチ、白黒で社会のあり方を考えるのではなく、真っ黒と真っ白の間の「灰色の世界」に我々の社会はあるはずです。
「どちらの方向に進むべきか」は「どのように成長を捉えるべきか」という、我々の社会との関わり方に依存しているように思います。
「成長一辺倒でいくか」「脱成長でいくか」を、社会自体がもっと真正面から議論すべき時代に来ているといえるでしょう。
望ましい社会とは成長した社会では必ずしもない、ということを「脱成長論」は示唆しているのです。
参照元:
・齋藤潤の経済バーズアイ(第117回)「脱成長論が提起していること」|日本経済研究センター
参考文献
・セルジュ・ラトゥーシュ著『脱成長』(文庫クセジュ、白水社 2020年)