水素社会とは、水素を燃料や原料として発電、産業、運輸、家庭に広く使う社会のことです。日本は2017年に世界で初めて水素の国家戦略を策定しました。2024年5月には「水素社会推進法」が成立し、同年10月に施行されています。それから約2年が経ち、法律に基づく支援の認定が実際に出はじめました。東京都心の熱供給設備のように、水素を使う設備が動き出した例もあります。この記事では、水素社会推進法が動き出した日本の現在地を、認定の件数、各地の取り組み、残る課題から確認します。
水素社会推進法の仕組みと、国が掲げる数値目標
水素社会推進法の正式名称は「脱炭素成長型経済構造への円滑な移行のための低炭素水素等の供給及び利用の促進に関する法律」です。名前のとおり、対象は水素なら何でもよいわけではありません。製造から使用までのCO₂排出量が基準以下の「低炭素水素等」(水素とその化合物であるアンモニアなど)が対象です。
水素そのものは燃やしてもCO₂を出しません。ただ、いま世界で作られている水素の大半は、天然ガスなどの化石燃料から作られています。そのため、どう作った水素なのかが制度の出発点になっています。
法律が用意した3つの後押し
法律の支援は、大きく3つに整理できます。1つ目は、低炭素水素等と既存燃料との価格差を、事業者の計画を認定したうえで国が支える「価格差に着目した支援」です。2つ目は、共用のタンクやパイプラインなど、複数の事業者が使う設備の整備費を支える「拠点整備支援」です。3つ目は、保安に関する規制の特例などを通じて、事業を進めやすくする仕組みです。
価格差支援は供給開始から15年間にわたるもので、政府は総額3兆円規模の支援を2026年度から本格的に実施する方針と報じられています。水素は天然ガスなどより割高なので、最初の買い手と売り手がつながるまでの「値段の壁」を、長期の約束で下げる狙いです。
水素基本戦略が示す導入量とコストの目標
法律の土台になっているのが、2023年6月に改定された「水素基本戦略」です。水素等の導入量は、2030年に最大300万トン、2040年に1,200万トン程度、2050年に2,000万トン程度が目標です。供給コストは、2030年に30円/Nm³、2050年に20円/Nm³(いずれも到着時点の価格)を目指しています。官民合わせたサプライチェーン投資は、15年間で15兆円を超える規模が見込まれています。
数字が並ぶと遠い話に見えますが、読み方のコツがあります。どれも「作る量」と「値段」の目標だということです。つまり、水素社会の実現度は、その年にどれだけの量が実際に供給され、どれだけ使われたかで測れます。
申請と認定の件数から見る「動き出し」の現在地
法律ができたことと、実際に事業が動くことは別の話です。資源エネルギー庁の資料から、申請と認定の件数を見てみます。
価格差支援は27件の申請から6件が認定
価格差に着目した支援は、2025年3月31日の締切までに27件の計画申請がありました。2026年3月時点で認定されたのは6件です。認定された事業には、豊田通商などによる愛知県知多市でのグリーン水素の製造と、愛知製鋼の工場での利用があります。これは風力発電を使い、年間約1,600トンの水素を作って、グリーン鋼の製造に使う計画です。
ほかに、レゾナックの廃プラスチックのガス化による低炭素アンモニアの製造(年間約2万トン)や、山梨県の水素製造会社YHCとサントリー、YHCとヒメジ理化による水電解のグリーン水素製造があります。JERAが米国ルイジアナ州で年間約77万トンの低炭素アンモニアを製造する計画も、認定を受けた事業として報じられています。
拠点整備支援は12件の申請から2件が認定
拠点整備支援は、2025年6月30日の締切までに12件の申請がありました。2026年3月27日付で認定されたのは2件で、北海道苫小牧で電力会社や商社、港湾事業者が進めるアンモニア供給拠点の整備計画が含まれます。
件数をどう受け止めるか
申請が27件あって6件の認定、12件あって2件の認定という数字を、「進みが遅い」と見ることもできます。一方で、15年間の支援を約束する制度なので、事業の採算性や実現性が厳しく審査されていると読むこともできます。
どちらが妥当かは、今後の認定の積み上がりと、認定された事業が計画どおり供給を始められるかで判断できます。現時点で言えるのは、制度の入口を通った事業が複数出たという事実と、通るための条件が決して緩くないという事実の2つです。
都心の熱供給から家庭用給湯器まで|地域と企業の取り組み
認定された大型事業の一方で、暮らしに近い場所でも実証が進んでいます。ここでは東京、山梨、北海道、神戸の例を見ます。
東京・赤坂の熱供給で始まったグリーン水素の利用
赤坂熱供給(TBSグループ)は、東京都港区赤坂の地域冷暖房の熱源として、グリーン水素を使う設備を導入しました。2026年5月12日に稼働開始の式典が開かれ、同月から本格運用が始まっています。設備は、水素で発電する純水素型燃料電池、水素と都市ガスを混ぜて燃やすボイラー、水素吸蔵合金のタンクで構成されます。ボイラーは、都市ガスだけの場合に比べてCO₂を約21%減らせる見込みです。
水素は山梨県から定期的に運ばれてくるとされています。再生可能エネルギーで作った水素を都心のビル群の冷暖房に使うという、地方の製造と都市の需要を結ぶ形です。
山梨と北海道で進む製造と供給拠点づくり
山梨県では、YHCがサントリーの天然水南アルプス白州工場の隣接地で、水電解による低炭素水素を作る計画が進んでいます。工場の熱源を水素に替える狙いで、先に述べた価格差支援の認定を受けた事業です。北海道の苫小牧では、アンモニアを受け入れて貯蔵・供給する拠点を整える計画が、拠点整備支援の認定を受けました。
地域ごとに、製造に向く場所、使う産業が集まる場所、船で受け入れる港が違います。水素社会の実装は、全国一律ではなく、地域の強みごとに形が変わっていく性格のものです。
家庭用給湯器の実証も始まっている
家庭に近い分野では、ノーリツが水素100%で燃やす家庭用給湯器を開発しました。神戸市、神戸市公立大学法人と協力し、2024年11月15日から神戸市立工業高等専門学校の敷地内で運転実証を始めています。さらに2024年12月から、西オーストラリアのガス会社ATCO Gas Australiaと共同で、約2年間の長期実証も進めています。
水素の配管網が整っていない現状では、すぐに家庭で使える段階ではありません。ただ、水素インフラが整った後にすぐ使えるよう、機器の側から準備が進んでいるとわかります。
世界の水素は「期待」から「現実」へ|IEAの見方
日本の動きを、世界の流れの中でも見ておきます。国際エネルギー機関(IEA)が2025年に公表した「Global Hydrogen Review 2025」は、世界の水素の現状を冷静に示しています。
低排出水素はまだ全体の1%に届いていない
IEAによると、2024年の世界の水素生産量は約1億トン近くに達しました。しかし、低排出の技術で作られた水素は1%未満でした。大半は、化石燃料から作る従来型の水素です。
発表済みの計画がすべて実現した場合、2030年には低排出水素が年間3,700万トンに達する可能性があるとされます。ただし、これは前年の見通し(4,900万トン)から引き下げられた数字です。事業の延期や中止、買い手の確保の難しさが背景にあるとIEAは指摘しています。最終投資決定まで進んだ事業に限ると、2030年の生産量は年間420万トンで、世界の水素供給の約4%にあたります。
「ハイプ」から「リアリティチェック」へ
欧州では、水素への過剰な期待(ハイプ)から、現実の確認(リアリティチェック)へという言葉が聞かれるようになったと言われます。水素事業は、作る側の計画だけでは成り立たず、買う側の需要が同時に立ち上がる必要があります。
日本の制度は、この課題に正面から向き合う設計です。製造事業者と利用事業者が共同で計画を出し、15年間の価格差を支える仕組みは、買い手の不安を和らげる狙いがあるからです。IEAの見方は、日本の制度への批判というより、世界共通の難しさを示したものと受け止められます。
世界で見ると、日本は「早く始めた国」のひとつ
日本は水素の国家戦略を最初に作った国です。ただし、その後は各国で戦略が整い、競争の場は広がりました。中国は、世界で導入済みまたは最終投資決定済みの水電解装置の容量の約65%を占めています。技術開発だけでなく、規模の面でも変化が起きています。
誤解されやすい3つのポイント
水素社会の話題には、いくつか誤解されやすい点があります。ニュースを読むときに引っかかりやすい3点を整理します。
水素を使えば、それだけでCO₂が減るわけではない
水素は使うときにCO₂を出しません。しかし、作るときに化石燃料を使えば、その分のCO₂が出ます。水素社会推進法が「低炭素水素等」と限定しているのは、このためです。「水素」という言葉だけで環境に良いと判断せず、どのように作られた水素か(再エネの水電解か、化石燃料にCO₂の回収を組み合わせたものか)を確認する必要があります。
法律ができても、すぐ水素が身近になるわけではない
法律の施行は、供給や利用の事業を後押しする仕組みが整ったという意味です。認定を受けた事業の多くは、製造や拠点の整備を2030年前後に向けて進める段階にあります。工場や発電所、熱供給などの大口の用途から先に広がり、家庭向けは後になる見通しです。
輸入に頼ると、新しい依存が生まれる可能性がある
水素がエネルギーの自給率を高める手段として期待される一方で、海外から水素やアンモニアを大量に輸入すれば、今度は輸出国への依存が生まれる可能性があります。国内での製造と海外調達のバランスをどう取るかが、今後の論点です。山梨や愛知のような国内製造の事業は、この点でも意味を持ちます。
水素のニュースを読むときに確認したい視点
最後に、読者の立場から、水素関連のニュースをどう読めばよいかをまとめます。
作り方と量を確認する
ニュースで「水素」と出てきたら、まず水素の作り方に注目してください。再エネ由来か、化石燃料由来にCO₂回収を組み合わせたものか、年間の製造量はどれくらいかを見ると、事業の位置づけが見えてきます。発表された計画量と、実際に供給が始まった量は別の数字であることにも注意が必要です。
自分の地域や使っているエネルギーとのつながりを探す
水素の製造拠点や受け入れ港、実証の場所は、地域ごとに違います。お住まいの自治体が水素関連の事業に関わっているか、通勤で通る場所に水素ステーションや実証施設があるかを調べると、遠い話が少し身近になります。家庭向けの機器は、2024年から始まった給湯器の実証のように、まだ研究と実証の段階にあるものが多いです。
期待と課題を両方見る
水素は、鉄鋼や化学のように、電化だけでは脱炭素が難しい分野で重要な役割を担うと見込まれています。同時に、コストや需要の確保、輸入依存という課題も抱えています。どちらか一方だけを見て、期待しすぎたり、否定しすぎたりしないことが、議論を育てる一歩になります。
まとめ
水素社会推進法の施行から約2年が経ち、価格差支援の認定が6件、拠点整備支援の認定が2件と、制度に基づく事業が動き出しました。東京・赤坂の熱供給設備は2026年5月に本格運用を始め、神戸や西オーストラリアでは家庭用給湯器の実証が続いています。水素基本戦略が掲げる2030年300万トン、2040年1,200万トンという目標に向けて、実装の段階に入ったと言えます。
一方で、IEAは、世界の低排出水素がまだ全体の1%未満で、2030年の見通しも前年より引き下げられたと報告しています。申請27件から6件、12件から2件という数字も、事業を実現するまでの道のりの長さを示しています。大切なのは、期待と課題の両方を数字で確認しながら、動きを追い続けることです。
まずは、気になった水素のニュースを1つ選び、「どうやって作った水素か」と「年間どれくらいの量か」の2点だけ確認してみてください。
- 水素社会推進法は、低炭素水素等の価格差支援と拠点整備支援などで事業を後押しする法律
- 2026年3月時点で、価格差支援は27件の申請から6件、拠点整備支援は12件の申請から2件が認定
- 赤坂の熱供給や家庭用給湯器の実証など、地域と企業の実践が複数進んでいる
- IEAによると、世界の低排出水素は2024年時点で全体の1%未満で、2030年の見通しも下方修正
- 水素のニュースは、作り方と量、期待と課題の両方を見て読むことが大切
参考文献
- 資源エネルギー庁「水素社会推進法の計画認定の進捗について」(2026年)
- 再生可能エネルギー・水素等関係閣僚会議「水素基本戦略」(2023年)
- IEA「Low-emissions hydrogen projects are set to grow strongly despite wave of cancellations and persistent challenges」(2025年)
- 赤坂熱供給「水素熱源設備 稼働開始記念式典 開催レポート」(2026年)
- ノーリツ「水素100%燃焼の家庭用給湯器の運転実証に関するニュースリリース」(2024年)

