私たちの暮らしは、きれいな空気や水、安定した気候など、自然からの恵みに支えられています。しかし今、地球上の生物多様性は急速に失われ続けており、種の絶滅速度は過去1000万年の平均と比べて数十倍から数百倍にも達しています。この危機的な状況を食い止め、自然を回復させる取り組みが「ネイチャーポジティブ」です。
そして2025年、企業や組織がネイチャーポジティブにどれだけ貢献しているかを測るための統一的な指標が誕生しました。それが「ネイチャーポジティブ指標」です。この新しい尺度は、企業の環境への取り組みを可視化し、投資家や消費者に対して透明性の高い情報を提供する役割を担います。本記事では、ネイチャーポジティブ指標とは何か、なぜ必要とされているのか、そして私たちの社会にどのような影響を与えるのかをわかりやすく解説します。
ネイチャーポジティブ指標とは何か

ネイチャーポジティブ指標とは、企業や組織の活動が自然環境にどのような影響を与えているかを数値で測定し、評価するための指標です。正式には「State of Nature Metrics(自然の状態指標)」と呼ばれ、2025年1月に国際的な組織であるNature Positive Initiative(NPI)によって試行版が発表されました。
この指標の最大の特徴は、世界共通の測定方法を提供する点にあります。これまで企業の環境への取り組みは、それぞれが独自の基準で評価していたため、本当に自然の回復に貢献しているのかを比較したり判断したりすることが困難でした。ネイチャーポジティブ指標は、この問題を解決するために開発されています。
具体的には、生態系の面積や質、野生生物の生息状況など、自然の状態を示す複数の要素を測定します。企業はこの指標を使うことで、自社の事業活動が森林を減少させているのか、それとも回復させているのか、絶滅危惧種の生息環境を守れているのかなどを、客観的なデータとして示すことができるようになります。
NPIには、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)、国際自然保護連合(IUCN)、世界自然保護基金(WWF)など、27の国際機関が参加しており、企業、金融機関、NGO、研究機関など多様な立場からの知見が集約されています。この広範な協力体制により、実用性と信頼性を兼ね備えた指標の構築が目指されています。
なぜネイチャーポジティブ指標が必要なのか

生物多様性の危機的状況
地球上の生物多様性は、かつてないスピードで失われています。国際的な科学機関であるIPBESの報告によれば、現在の種の絶滅速度は、恐竜が絶滅した時よりもはるかに速いペースで進行しています。この背景には、森林伐採、乱獲、気候変動、外来種の侵入など、人間の活動による複合的な要因があります。
生物多様性の損失は、私たちの生活に直接的な影響を及ぼします。たとえば、世界の主要農作物の4分の3以上は、ミツバチやチョウなどの昆虫による受粉に依存しています。これらの生物がいなくなれば、食料生産に深刻な打撃を与えることになるでしょう。さらに、森林や海洋は温室効果ガスを吸収し、気候を安定させる役割も担っています。
世界経済フォーラムは、自然資本の劣化が世界のGDPの半分以上、約44兆米ドルに影響を与えると予測しています。つまり、生物多様性の保全は環境問題であると同時に、経済の持続可能性にも直結する重要な課題なのです。こうした危機的状況を受けて、2021年のG7サミットや2022年の生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)では、2030年までに自然を回復軌道に乗せる「ネイチャーポジティブ」という目標が国際的に合意されました。
企業に求められる情報開示
ネイチャーポジティブの実現には、企業の役割が極めて重要です。なぜなら、企業活動は自然に大きな影響を与える一方で、適切な取り組みによって自然の回復に貢献する力も持っているからです。実際、COP15で採択された昆明・モントリオール生物多様性枠組では、企業に対して自然への依存度や影響、リスクと機会を評価し開示することが求められています。
しかし、ここに大きな課題がありました。自然の状態を測定するための統一的な指標が存在しなかったのです。企業が「環境保全活動を実施している」と報告しても、それが本当に自然の回復につながっているのか、客観的に評価する共通の物差しがありませんでした。このため、投資家は企業の環境への取り組みを比較できず、一部の企業による「グリーンウォッシュ」(実態を伴わない環境配慮のアピール)も問題視されていました。
TNFDの開示枠組みでも、「自然の状態」を示す指標は長らく仮置きの状態が続いていました。ネイチャーポジティブ指標は、この空白を埋めるために開発されたものです。統一的な測定方法が確立されれば、企業は自社の取り組みの成果を信頼性の高いデータで示すことができ、投資家や消費者は企業の環境貢献度を正確に判断できるようになります。また、企業にとっても、どの取り組みが最も効果的かを科学的根拠に基づいて判断し、資源を適切に配分することが可能になります。
State of Nature Metricsの具体的な内容

State of Nature Metrics(自然の状態指標)は、600を超える既存の自然関連指標を分析・整理した上で設計されています。2025年1月に発表された試行版では、企業が測定すべき指標が「共通指標」と「個別指標」の2つのカテゴリーに分類されています。この構造により、すべての企業に共通する基本的な測定項目と、業種や状況に応じた追加的な測定項目を組み合わせることができます。
共通指標(Universal Indicators)
共通指標は、業種や地域を問わず、すべての企業が測定すべき4つの基本的な指標で構成されています。これらは自然の状態を包括的に捉えるために設計されており、企業活動が自然環境全体にどのような影響を与えているかを評価します。
第一の指標は「生態系の範囲」です。これは、企業の活動によって影響を受ける森林、湿地、草原などの生態系の面積を測定します。たとえば、工場の建設で失われた森林の面積や、逆に企業の保全活動によって回復した湿地の面積などがヘクタール単位で記録されます。単に面積を測るだけでなく、どのような種類の生態系なのかも分類して把握します。
第二の指標は「生態系の状態」です。面積だけでなく、その生態系がどれだけ健全であるかを評価します。同じ森林でも、多様な生物が生息する健全な森と、外来種に侵食された劣化した森では、自然資本としての価値が大きく異なります。この指標では、植生の状態や土壌の質、水質など、生態系の質的な側面を測定します。
第三の指標は「景観の完全性」です。これは、生態系がどれだけ連続性や統合性を保っているかを評価します。野生生物にとって、生息地が細切れになると移動や繁殖が困難になり、絶滅のリスクが高まります。企業の活動が周辺の自然環境とのつながりを分断していないか、あるいは分断された環境を回復させているかを測定します。
第四の指標は「種の絶滅リスク」です。企業の活動が影響を与える地域に生息する野生生物、特に絶滅危惧種の状況を評価します。具体的には、国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストなどを参照し、企業の取り組みが絶滅リスクの軽減にどれだけ貢献しているかを測定します。
これらの共通指標には、企業の測定能力に応じて「低」「中」「高」の3段階の粒度レベルが設定されています。測定に投下できる資金や時間、技術的な能力は企業によって異なるため、まずは簡易的な測定から始め、段階的により詳細な測定へと進むことが可能です。
個別指標(Case-specific Indicators)
個別指標は、企業の業種や活動内容、事業を展開する地域の特性に応じて追加する指標です。最大5種類まで選択することができ、共通指標だけでは捉えきれない、より具体的な環境への影響を測定します。
たとえば、農業や食品関連企業であれば、土壌の健全性や受粉を行う昆虫の個体数を測定することが重要になります。ミツバチなどの花粉媒介者は農作物の生産に不可欠であり、これらの個体数の変化は企業活動の影響を直接的に示す指標となります。
水産業や沿岸開発に関わる企業の場合は、海洋生態系やサンゴ礁の健全性、海水の水質などが重要な指標となるでしょう。また、製造業であれば、工場からの排水が河川や海洋に与える影響、大気汚染物質の排出量などが個別指標として設定されます。
林業や紙・パルプ産業では、森林の炭素貯蔵量や生物多様性の豊かさ、持続可能な方法で管理されている森林の面積などが測定対象となります。建設業では、工事によって影響を受ける野生生物の生息地の面積や、生態系ネットワークの分断の程度などが重要です。
個別指標の設計においては、科学的な根拠に基づいていることが求められます。企業は自社の事業が自然に与える最も重要な影響を特定し、それを適切に測定できる指標を選択する必要があります。この柔軟性により、多様な業種や事業形態に対応しながらも、測定の信頼性を確保することが可能になります。
ネイチャーポジティブ指標の開発状況と今後

国際的な取り組みの経緯
State of Nature Metricsの開発は、2024年に本格的に開始されました。Nature Positive Initiative(NPI)が中心となり、TNFD、GRI(グローバル・レポーティング・イニシアティブ)、SBTN(科学に基づく目標ネットワーク)、WWF、WBCSD(持続可能な開発のための世界経済人会議)など、自然関連の情報開示やデータ保有に関わる主要な27の国際機関が連携してプロジェクトを進めています。
開発プロセスでは、まず世界中から600を超える既存の自然関連指標を収集し、分析と整理を行いました。その後、指標フレームワークの原型を作成し、2024年10月からパブリック・コンサルテーション(公開意見募集)を実施しました。100を超えるステークホルダーからのフィードバックを反映させ、2025年1月に試行用のドラフト版が発表されました。
現在は「パイロット段階」と呼ばれる検証期間に入っており、複数の企業が実際にこの指標を使用して測定を試みています。農業、エネルギー、林業、金融、製造業、鉱業など、さまざまな業種の企業が参加し、指標の実用性や課題を検証しています。この検証作業は2025年5月から本格的に開始され、企業からのフィードバックをもとに指標の改善が進められています。
NPIは、現段階のドラフト版はまだ未完成であり、企業がネイチャーポジティブであると正式に宣言するための使用は推奨していません。最終版は2026年の完成を目指しており、その後、TNFDやGRI、SBTNなどの既存の開示フレームワークに統合される予定です。
日本企業への影響
日本でも、ネイチャーポジティブ指標への対応が急速に進んでいます。環境省は「ネイチャーポジティブポータル」を開設し、企業や自治体、国民に向けた情報発信を強化しています。また、経団連自然保護協議会やTNFD日本協議会など、産業界と専門家が連携した取り組みも活発化しています。
一部の先進的な日本企業は、すでに独自のネイチャーポジティブ評価手法の開発に着手しています。たとえば、大成建設は2023年から九州大学と協力し、建設事業が生物の生育・生息環境に与える影響を定量的に評価する手法を開発しています。積水ハウスは、2001年から続けてきた「5本の樹」計画による累計1709万本の植栽について、琉球大学との共同検証により生物多様性への貢献度を科学的に測定しています。
今後、State of Nature Metricsが国際的な標準指標として確立されれば、日本企業にも大きな影響が及びます。特に、海外展開している企業や国際的な投資家から資金調達を行う企業にとっては、この指標に基づいた情報開示が求められる可能性が高まります。早期に準備を進めることで、企業は競争優位性を獲得し、ESG投資の呼び込みにもつながるでしょう。
一方で、課題も存在します。指標の測定には専門的な知識や技術が必要であり、特に中小企業にとってはコスト面での負担が懸念されます。また、日本固有の生態系や里山のような文化的景観をどのように評価するかなど、国際基準と日本の実情をどう調和させるかも検討が必要です。そのため、政府や業界団体による支援体制の整備や、日本の実情を反映した測定ガイドラインの作成が期待されています。
企業や私たちにできること

ネイチャーポジティブへの第一歩
ネイチャーポジティブの実現は、企業だけでなく、私たち一人ひとりの行動によっても支えられます。企業にとっての第一歩は、自社の事業活動が自然にどのような影響を与えているかを正確に把握することです。サプライチェーン全体を見渡し、原材料の調達から製造、流通、廃棄に至るまでの各段階で、生物多様性への影響を評価する必要があります。
すでに情報開示の取り組みを進めている企業は、State of Nature Metricsの試行版を参考に、測定体制の整備を検討することが有効です。一方、これから取り組みを始める企業は、まず簡易的な測定から着手し、段階的に精度を高めていくアプローチが現実的でしょう。業界団体や専門機関が提供するガイドラインやツールを活用することで、効率的に進めることができます。
私たち消費者や市民にできることもたくさんあります。日々の買い物で、環境に配慮した製品やサービスを選ぶことは、企業に対する強いメッセージになります。地元の旬の食材を選ぶ、持続可能な方法で生産された商品を購入する、過度な消費を控えるといった行動が、自然の回復を後押しします。
また、地域の自然保護活動に参加したり、身近な緑地や水辺の環境を大切にしたりすることも重要です。都市部でも、庭やベランダに在来種の植物を植えることで、昆虫や鳥の生息地を提供できます。こうした小さな行動の積み重ねが、生態系ネットワークの形成につながります。
何より大切なのは、ネイチャーポジティブの必要性を認識し、関心を持ち続けることです。企業の環境報告書を読む、環境問題についての情報を得る、周囲の人と話し合うといった行動が、社会全体の意識を変える力になります。
まとめ

ネイチャーポジティブ指標は、企業や組織が自然環境への影響を測定し、回復への貢献度を可視化するための統一的な尺度です。2025年1月に試行版が発表されたState of Nature Metricsは、共通指標と個別指標を組み合わせることで、多様な業種や事業形態に対応しながら、科学的根拠に基づいた測定を可能にします。
生物多様性の危機的な損失が続く中、自然の状態を正確に測定し、回復の進捗を追跡することは、2030年までにネイチャーポジティブを実現するために不可欠です。企業にとっては、投資家や消費者からの信頼を得るための重要なツールとなり、私たち社会にとっては、持続可能な未来を築くための共通言語となります。
この新しい指標は現在も発展途上であり、2026年の最終版完成に向けて改善が続けられています。日本企業も国際的な動向に注目し、早期の準備を進めることが求められます。そして私たち一人ひとりも、自然との共生を意識した選択と行動を通じて、ネイチャーポジティブの実現に貢献することができます。自然を回復させる取り組みは、今この瞬間から始められるのです。
参照元
・環境省 ネイチャーポジティブポータル https://policies.env.go.jp/nature/nature-positive/
・Nature Positive Initiative – State of Nature Metrics https://www.naturepositive.org/metrics/
・EY Japan ネイチャーポジティブの評価指標、State of Nature Metricsの開発状況と概要解説 https://www.ey.com/ja_jp/insights/climate-change-sustainability-services/introducing-state-of-nature-metrics-in-development-by-npi
・SOMPOインスティチュート・プラス ネイチャーポジティブと自然関連リスク対応のギャップは埋まるか https://www.sompo-ri.co.jp/2025/05/21/18629/
・IUCN日本委員会 マルチセクターで考えた自然を測る共通指標案が発表 https://www.iucn.jp/event_and_seminar/2025/02/12/15028/
・大成建設 ネイチャーポジティブ評価手法の評価ロジック完成 https://www.taisei-sx.jp/news/detail.php?id=249
・積水ハウス ネイチャー・ポジティブ方法論 https://www.sekisuihouse.co.jp/gohon_sp/method/

