世界の失業率は安定しているのに、なぜ「ディーセントワーク」(働きがいのある人間らしい仕事)は遠ざかっているのでしょうか。ILO(国際労働機関)が2026年1月14日に発表した旗艦報告書「Employment and Social Trends 2026」は、「雇用の安定」を示す数字の裏で、「仕事の質」の改善が止まっていると指摘しました。日本でも、2026年9月に労働基準関係法制の見直し議論が再開され、10月には新しい最低賃金が順次動き出しています。この記事では、報告書が示した数字を整理し、日本の制度の現在地と、自分の働き方を見直す具体的な手がかりを紹介します。
ILOが2026年1月に示した「安定した数字」の中身
ILOは2026年1月14日、190か国以上のデータをもとに世界の労働市場を分析した報告書を発表しました。見出しの数字だけを見ると、状況は落ち着いています。世界の失業率は2026年も約4.9%と見込まれ、失業者数はおよそ1億8600万人と推計されています。
ところがILOは、この安定が働く人の安心を意味しないと明確に述べています。報告書の公表に合わせてギルバート・F・ウングボ事務局長は、底堅い成長と安定した失業率に目を奪われてはならず、数億人の労働者が貧困、インフォーマル雇用、排除のなかに取り残されている、という趣旨の警告を出しました。
失業率に表れない「質」の指標
報告書が注目したのは、失業率では測れない指標です。
- 仕事を求めているのに就けない人の数を示す「ジョブズ・ギャップ」は、2026年に約4億800万人
- 1日3米ドル未満で暮らす極度の貧困状態の労働者は、3億人近く
- 社会保障や基本的な権利のないインフォーマル雇用で働く人は、約21億人
極度の貧困にある労働者の減少幅は、2015年から2025年の10年間でわずか3.1ポイントにとどまりました。その前の10年間の約15ポイントと比べると、改善の勢いが大きく落ちています。仕事に就いていても生活が安定しない状態が、統計の上でも固定化しつつあります。
若者・女性・低所得国に偏る負担
しわ寄せは特定の層に集中しています。2025年の世界の若者失業率は12.4%に上昇し、約2億6000万人の若者が就学・就労・職業訓練のいずれにも参加していない状態(NEET)にあります。低所得国ではNEET率が27.9%に達しています。
ジェンダー格差も縮まっていません。女性は世界の雇用の約5分の2を占めるにすぎず、労働市場への参加率でも男性との差が大きく残っています。「働く場に入れるか」と「入った先の仕事が人間らしいか」の両方で、不利を抱える人がいる構図です。
「雇用の安定」と「仕事の質」は何が違うのか|よくある誤解
ここで、2つの言葉を整理しておきます。「雇用の安定」は、仕事に就いている人が多いという量の話です。「仕事の質」は、その仕事で生活が成り立つか、病気やけがのときに守られるか、不当な扱いに声を上げられるかという中身の話です。ディーセントワークは後者を指します。ILOは、雇用機会、社会的保護、労働における権利、社会対話(労使などが話し合う仕組み)の4つを柱に掲げています。
「非正規は質が低く、正規は質が高い」とは限らない
日本で議論が混ざりやすいのは、雇用形態と仕事の質を同一視する場面です。総務省統計局の労働力調査では、2025年も非正規で働く人は2,100万人台前半で推移しています。ただ、非正規だから質が低いと決めつけると、見落としが出ます。
同じ非正規でも、社会保険に加入し、賃金や休暇が適切に処遇されている人がいます。逆に正規雇用でも、長時間労働や休息不足で心身を削っている人がいます。確認したいのは雇用形態のラベルより、賃金水準、社会保障、労働時間と休息、契約の透明性、声を上げられる環境といった中身です。
インフォーマル雇用は「遠い国の話」か
21億人というインフォーマル雇用の数字は、主に低所得国・中所得国の実態を映しています。日本の状況をそのまま当てはめることはできません。一方で、日本にも雇用契約が曖昧なまま働くケースや、雇用と業務委託の境目が見えにくい働き方があります。2024年11月には、フリーランスとの取引を適正化する法律(フリーランス・事業者間取引適正化等法)が施行され、報酬や取引条件の明示が事業者に求められるようになりました。「質」の議論が日本の足元にも及んでいることの表れと言えます。
数字を読むときの視点
ニュースで「失業率は低水準」と聞いたら、同時に3つを確かめる癖をつけると、報道の見え方が変わります。実質賃金は上がっているのか、働いても貧困から抜け出せない人はどれくらいいるのか、若者や女性の就労環境はどうか、の3点です。失業率は雇用の入口の指標であり、働く人の暮らしの質を直接測る指標ではありません。
AIと貿易の不確実性が「質」に与える影響
報告書は、2026年の労働市場にとって大きなリスクとして、AI(人工知能)と貿易政策の不確実性を挙げています。どちらも失業率という「量」より先に、仕事の中身や賃金という「質」に響きやすいテーマです。
AIは高学歴の若者にも壁になりうる
ILOは、AIや自動化が高所得国の高学歴の若者にとっても就職の障壁になりうると指摘し、技術の影響を注意深く監視するよう求めています。これまで「学歴があれば就職しやすい」とされてきた前提が、入口の仕事(定型的な事務やデータ処理など)の変化によって揺らぐ可能性があります。
貿易の混乱は賃金に影響する
貿易が支える雇用は世界で約4億6500万人に上り、半数以上がアジア・太平洋地域に集中しています。不透明な貿易ルールやサプライチェーンの停滞は、東南アジア・南アジア・ヨーロッパを中心に賃金を押し下げる要因になっていると報告されています。日本の製造業や小売業も、こうしたサプライチェーンの末端で働く人たちとつながっています。
ウングボ事務局長は、政府・雇用主・労働者が協調して技術を責任ある形で活用し、女性と若者に質の高い雇用機会を広げなければ、ディーセントワークの不足が続き、社会的結束が危うくなると呼びかけています。技術や貿易の変化そのものより、その負担を誰が引き受けるかが問われている、という読み方ができます。
日本の現在地|労働基準法の見直しはどこまで進んだか
世界の状況に対して、日本の制度はどう動いているのでしょうか。2025年から2026年にかけての経緯を、時系列で整理します。
2025年1月の研究会報告書
厚生労働省は2025年1月8日、「労働基準関係法制研究会」の報告書を公表しました。報告書には、13日を超える連続勤務をさせてはならないとする規定の新設や、法定休日を事前に特定すること、勤務間インターバル制度の導入促進などが盛り込まれました。当時は「40年ぶりの大改正」として注目されました。
勤務間インターバルは、終業から次の始業までに一定の休息時間を確保する仕組みで、現在は努力義務にとどまっています。報告書をふまえた議論では、義務化を含めた強化が論点となり、勤務時間外の連絡から離れる「つながらない権利」の扱いも焦点の1つになりました。
2026年通常国会への提出は見送りに
この改正案は、2026年の通常国会への提出が目指されていましたが、見送られました。2025年11月に発足した日本成長戦略会議で、労働時間規制の緩和も検討課題とされたことが背景にあると報じられています。人手不足と生産性の向上をどう両立させるかという課題と、過重労働を防ぐ規制強化の方向性とが、同じテーブルに載った形です。
2026年9月に議論が再開
その後、2026年7月21日に日本成長戦略と骨太方針2026が閣議決定され、9月16日には労働政策審議会の労働条件分科会が労働基準関係法制の見直し議論を再開したと伝えられています。月2〜3回程度の頻度で、勤務間インターバル、連続勤務規制、つながらない権利、裁量労働制などを順に議論する方針が示されたとされています。法案提出の時期は、現時点では確定していません。
最低賃金は過去2番目の引き上げ幅
足元で確実に動いているのが最低賃金です。厚生労働省が2026年9月3日に公表した令和8年度の地域別最低賃金の答申では、全国加重平均が1,177円となり、前年度から56円引き上げられました。引き上げ額は、目安制度が始まった1978年度以降で2番目の高さです。改定額は、2026年10月1日から12月2日までの間に都道府県ごとに順次発効する予定です。今まさに、時給で働く人の賃金が切り替わっている時期です。
次の疑問|自分の働き方は「質」を満たしているか
制度の議論が続くあいだも、働く人は今日の職場で働いています。法改正を待たずに、自分の働き方を点検する視点を3つ挙げます。
契約と賃金の確認
最初に見るのは、雇用契約書や労働条件通知書です。賃金の額と計算方法、働く場所、労働時間、休日、更新の有無などが書面で明示されているかを確認します。副業やフリーランスで働く場合は、報酬の額と支払い期日、業務の範囲が書面やメールで残っているかを見ます。口頭だけの約束は、後で認識がずれたときに確認する手段がありません。
時間と休息の確認
次に、実際の労働時間と休息です。就業規則に勤務間インターバルや時間外労働の上限に関する定めがあるか、有給休暇を取得しやすい雰囲気があるかを確かめます。勤務時間外の連絡について、職場のルールが決まっていない場合は、上司や人事に「緊急時の連絡基準」を確認するだけでも、境界線をつくる第一歩になります。
声を上げる場所を知っておく
3つ目は、困ったときの相談先です。各都道府県の労働局や労働基準監督署に設けられた総合労働相談コーナーでは、労働条件や職場のトラブルについて、無料で相談できます。職場に労働組合や従業員代表がある場合は、そこに意見を伝える方法もあります。ILOが重視する「社会対話」は、国際的な枠組みの話に見えますが、職場の小さな意見交換から始まるものです。
企業に求められるサプライチェーン全体のディーセントワーク
ディーセントワークは、自社の従業員だけの課題ではなくなっています。日本政府は2022年9月に「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を策定し、企業に対して、人権方針の策定、人権デューディリジェンス(人権への悪影響を特定し、防止・軽減する取り組み)、救済の仕組みづくりを求めています。
実務の現場では、取引先に対して労働者の権利や安全衛生への配慮を求める調達方針を整える企業が増えています。一方で、サプライチェーンの構造の複雑さや、人員・予算の確保、具体的な進め方の分かりにくさが課題になっていることも、調査で指摘されています。とくに取引先が多い企業では、最初から全体を網羅しようとせず、リスクの高い工程や地域から優先して確認する進め方が現実的です。
消費者や就職活動中の人にとっても、企業の人権方針や労働環境に関する開示は、判断材料になります。働く人の権利に配慮した商品やサービスを選ぶことは、サプライチェーンの末端で働く人の条件を変える力になります。
まとめ
ILOが2026年1月に示したのは、失業率という入口の数字が安定していても、働く人の貧困、インフォーマル雇用、若者や女性の不利が固定化しているという現実です。世界で21億人がインフォーマル雇用に置かれ、3億人近くが働きながら極度の貧困状態にあるという数字は、経済成長の恩恵が必ずしも公正に分配されていないことを示しています。
日本でも、労働基準法の見直しは2026年9月に議論が再開された段階で、勤務間インターバルや連続勤務規制、つながらない権利がどう形になるかは、これからの審議にかかっています。一方で、最低賃金の引き上げのように、すでに動き出している変化もあります。制度の行方を待つだけでなく、契約、時間と休息、相談先の3点を自分で確認しておくことが、日常でできる備えです。
まず1つだけ試すなら、手元の労働条件通知書(または契約書)を開き、賃金と労働時間の記載を読み返してみてください。分からない点が見つかれば、それが相談の出発点になります。
- 世界の失業率は約4.9%で安定していても、仕事の質の改善は停滞している
- 「雇用の安定」は量の指標、「仕事の質」は賃金・社会保障・権利・対話を含む中身の指標
- 日本の労働基準法見直しは2026年9月に議論が再開し、法案提出時期は未確定
- 2026年度の最低賃金は全国加重平均1,177円で、10月から順次発効する
- 契約・時間と休息・相談先の3点を点検することが、法改正を待たずにできる備えになる
参考文献
- ILO「Global job quality stagnates despite resilient growth」(2026年)
- ILO「Employment and Social Trends 2026」(2026年)
- 厚生労働省「『労働基準関係法制研究会』の報告書を公表します」(2025年)
- 厚生労働省「令和8年度地域別最低賃金額改定」(2026年)
- 経済産業省「ビジネスと人権」(2022年)
- 総務省統計局「労働力調査」(2025年)

