気候リスクの「過小評価」とは、政府・中央銀行・投資家が使う経済モデルが、気候変動で実際に起こりうる損害より小さな数字を出してしまう問題を指します。2026年2月、英エクセター大学のGreen Futures SolutionsとCarbon Tracker Initiativeがまとめた報告書「Recalibrating Climate Risk」が、この点を科学者の専門家判断をもとに指摘しました。モデルが小さく見積もれば、年金基金や金融機関のリスク管理も甘くなります。この記事では、モデルの何が見落とされているのか、日本の金融や年金の現場がどこまで対応しているのか、そして私たちが何を確かめられるのかを整理します。
「過小評価」の正体は、モデルの前提にある
「気候リスクが過小評価されている」と聞くと、気候変動の被害を誰かが意図的に小さく見せているように感じるかもしれません。ここで問題になっているのは、悪意ではなく、モデルの設計です。
経済学では、気温が上がると経済がどれだけ損なわれるかを「ダメージ関数」という式で表します。金融機関のシナリオ分析や政府の政策評価は、この式を土台にした数字に頼っています。式の置き方が楽観的だと、その上に積み上げた試算はすべて小さめに出ます。
Recalibrating Climate Risk が指摘したこと
Carbon Trackerの公表ページによると、報告書は2026年2月5日に発表されました。構造化された専門家判断の手法で、12カ国の気候科学者の見解を集めています。
報告書の主張は大きく3点です。熱波・洪水・干ばつのような地域的な極端現象は、世界平均気温を軸にしたモデルでは捉えきれないこと。2℃前後を超えると不確実性が急に大きくなり、一つの数字で示した推計は精密に見えても意思決定には頼りにくくなること。そして、完璧なモデルが完成するのを待たず、ガバナンスや投資の実務を慎重さ・頑健性・透明性の方向へ見直すべきだということです。
2023年の指摘から続く問題
この報告書は、Carbon Trackerが2023年に発表した「Loading the DICE Against Pensions」を土台の一つにしています。この2023年の報告書は、年金基金向けの助言に使われてきた気候経済モデルが、損害を小さく見せる方向に偏っていないかを問うものでした。2026年の報告書は、この問いを気候科学者の側から裏づけ直したものだと位置づけられます。
経済モデルが見落とす3つの盲点
モデルの何が足りないのかを、報告書の指摘から3つに分けて見ていきます。どれも専門的に聞こえますが、日常の感覚に置き換えるとつかみやすくなります。
盲点1|平均気温では「地域の極端現象」が見えない
世界平均で気温が1.5℃や2℃上がると言っても、実際に被害を出すのは特定の地域に集中する猛暑や豪雨です。平均値を入力にするモデルは、ある町で一度に起きる大洪水や、数年続く干ばつの打撃をうまく表現できません。
テストの平均点が高くても、特定の科目で赤点があれば進級に響くのと似ています。リスク管理で知りたいのは、平均ではなく「最悪の局面でどれだけ失うか」のほうです。
盲点2|GDPで測ると、失ったものが消えて見える
報告書は、GDPに基づく指標が、死亡や病気、不平等、生態系の劣化、社会的混乱による損失を小さく見積もりやすいと指摘しています。災害後の復興支出がGDPを一時的に押し上げ、被害が回復したように見えることもあります。
家が流されて建て直せば、建設の売上は増えます。ただし、失われた暮らしや地域のつながりは、統計の上では「損失」として残りません。損害額の推計が低く出る理由の一つがここにあります。
盲点3|ショックの連鎖が計算に入らない
気候リスクは一度きりで終わらず、時間をかけて積み重なり、互いに影響し合うとされます。農作物の不作が物価と治安に響き、財政が悪化して復旧が遅れ、次の災害でさらに傷が深くなる、といった連鎖です。
標準的なモデルは、こうした連鎖をほとんど扱いません。今回の報告書の関連資料では、過去の災害データだけでは複数の関数形を見分けられない(当てはまりの指標R²が0.1未満)とも紹介されています。つまり、手元のデータが少ない領域ほど、モデルの選び方で答えが大きく変わります。
実績データが示す、すでに起きている損失
モデルの話は抽象的に聞こえますが、被害の実績はすでに積み上がっています。ここでは二つの公開資料から、リスクの大きさを確かめます。
過去30年で83万人超、約4.5兆ドル
ドイツの環境NGO・Germanwatchの「気候リスク指数(Climate Risk Index)2026」は、1995年から2024年までの30年間を対象にしています。報道によると、この期間に9,700件を超える極端気象で83万2,000人以上が亡くなり、直接の経済損失は約4.5兆ドルにのぼりました。
影響の大きかった国は、ドミニカ、ミャンマー、ホンジュラスの順です。2024年は観測史上最も暑い年となり、世界の平均気温が産業革命前より初めて1.5℃を超えたことも、同じ資料で触れられています。ただし、この指数が数えるのは直接の損失です。前の節で見たとおり、GDPに表れにくい被害は含まれていません。
世界経済フォーラムは「10年後の最大リスク」に極端気象を置く
世界経済フォーラム(WEF)の「グローバルリスク報告書2026」では、今後10年(2036年まで)の見通しで、1位が極端な気象現象、2位が生物多様性の損失と生態系の崩壊、3位が地球システムの重大な変化でした。長期リスクの上位10件のうち5件が環境関連です。
一方で、今後2年の短期見通しでは、極端気象は4位に下がっています。地政学的・経済的な対立が優先されやすい構図ですが、長期になるほど環境リスクの重みが増すのが特徴です。短期の関心が高い問題に目を奪われているあいだに、長期のリスクが静かに積み上がるという点は、年金のように長い時間軸で運用する資金にとって見過ごせません。
年金・金融が直面する「見えない損失」
では、モデルの過小評価は、お金の世界にどう影響するのでしょうか。Carbon Trackerの報告書は、投資家、規制当局、モデル提供者のそれぞれに向けた提言を示しています。
年金基金は気候リスクを分散できない
個別企業のリスクなら、投資先を分ければ薄められます。しかし、物理的な気候リスクは経済全体に同時に影響します。世界中の株式や債券に分散していても、経済全体が打撃を受ければ、運用資産がそろって値下がりします。
報告書は、機関投資家や年金基金に対し、物理的リスクを「経済全体に相関するリスク」として扱い、GDPの指標に表れにくい連鎖的な混乱に耐えられるか、運用戦略をストレステストするよう求めています。
金融システムそのものにも及ぶ
銀行の融資先が洪水や猛暑で事業を止めれば、貸し倒れが増えます。保険会社の支払いが急増すれば、保険料の上昇や引受の縮小につながります。報告書は、政策担当者・規制当局・中央銀行に、極端現象や複合的な影響、テールリスク(まれだが損害が極端に大きい事態)を織り込んだ監督手法へ更新するよう促しています。
「点の推計」から「幅のある推計」へ
分析する側への提言も明快です。単一の「最良推定値」に頼らず、幅のある結果と前提を示し、高い気温域ではモデル自体が当てにならなくなる可能性を明記すること。数字が小さく出ているときほど、その数字がどの前提でつくられたのかを確認するのが、読み手側の基本姿勢になります。
日本の金融機関・年金運用はどこまで進んでいるか
日本でも、気候リスクを金融の中心課題として扱う流れは続いています。ただし、報告書が指摘する「モデルの限界」をどう受け止めるかは、これからの課題です。
金融庁と日本銀行のシナリオ分析
金融庁は2025年6月、「気候関連リスクに関する金融機関の取組の動向や課題」を公表しました。気候変動対応を重要課題と位置づける金融機関が増えている一方で、気候リスクは中長期にわたって顕在化するため、従来のリスク管理の枠組みでは捉えにくいという課題が挙がっています。顧客の脱炭素移行を資金面で支えると、投融資に伴う排出量が一時的に増えるという矛盾も指摘されています。
同じ日には、金融庁と日本銀行が3メガバンクと連携して行った第2回のシナリオ分析も公表されました。第1回と同様に、数字を精密に出すことよりも、分析手法の課題を把握することが主眼とされています。つまり日本の当局自身も、現行の分析手法には限界があるという前提で進めています。
開示制度は大手から段階的に義務化へ
企業側の情報開示も動いています。サステナビリティ基準委員会(SSBJ)の基準に沿った開示は、金融庁の審議会資料などで、時価総額の大きいプライム上場企業から段階的に有価証券報告書へ義務化していく方向が示されています。報道や解説では、時価総額3兆円以上が2027年3月期、1兆円以上が2028年3月期とされており、対象外の企業への拡大時期は引き続き検討中です。自分が関わる企業や投資先が対象に入るかは、公表資料で個別に確認してください。
公的年金のGPIFの取り組み
公的年金を運用するGPIFは、2025年3月にサステナビリティ投資方針を策定し、運用ポートフォリオの気候関連の分析結果を公表しています。公表資料では、外部の分析会社の手法で、ポートフォリオが仮に何℃の気温上昇に整合しているかを示すITR(Implied Temperature Rise)などを算出していると報告されています。分析の前提となるシナリオが更新されるたびに、結果が動く点は、モデルに依存する分析の性質をよく表しています。
「過小評価」をめぐって誤解されやすい3つの点
この話題は、受け取り方によって極端な結論に流れやすいテーマです。報告書の主張を超えて理解しないために、よくある誤解を3つに分けて確認します。
誤解1|「だから被害は必ず報告書の最悪値になる」
報告書が言っているのは、特定の損失額の予測ではありません。「現行のモデルは、起こりうる悪いシナリオを十分に織り込んでいない」という指摘です。幅を持って備える必要がある、という話であり、最悪の結果が確定したという話ではありません。
誤解2|「不確実なら、確かになるまで様子を見ればいい」
不確実性が大きいことは、動かない理由にはなりません。報告書は、完璧なモデルを待たず、慎重さと頑健性を優先する方向へ実務を見直すべきだとしています。保険に入るときも、事故の確率がはっきり分からないからこそ備えるのと同じ考え方です。
誤解3|「自分の年金や貯蓄は、結局どうにもならない」
個人の資金の運用先は、実際には選べる部分があります。次の節で、確認できる項目を見ていきます。
自分の年金・投資について確かめられること
気候リスクの問題は、政府や金融機関だけの課題ではありません。年金や投資信託を通じて、私たちの資産もこのリスクに関わっています。ここでは、読者が実際に手を動かせる確認項目を3つ挙げます。
運用報告書や商品説明で、気候リスクの扱いを探す
投資信託なら、運用報告書や目論見書、運用会社のウェブサイトに、ESGや気候変動の考え方、議決権行使の方針が書かれていることがあります。企業型確定拠出年金やiDeCoで商品を選ぶときも、同じ書類を見比べられます。載っていなければ、問い合わせてみること自体が有効な一歩です。
年金や運用会社の方針と、開示の有無を見る
加入している年金や運用会社が、責任投資の方針や気候関連のシナリオ分析の結果を公表しているかを確認します。公表していても、「分析結果が一つの数字だけで示されている」のか「幅や前提が説明されている」のかで、情報の誠実さが分かれます。
数字の「前提」を読む習慣をつける
「このシナリオでは損失は軽微」といった数字を目にしたら、どんな気温上昇を前提にしているか、極端現象や連鎖を扱っているかを一度たしかめてみてください。企業や金融機関に対して、市民や顧客が開示を求める声は、より頑健なリスク評価を促す力になります。
まとめ
気候リスクの過小評価は、誰かが数字をごまかしているという話ではなく、平均気温やGDPを軸にしたモデルが、地域の極端現象や被害の連鎖を捉えきれないという設計上の問題です。2026年2月の「Recalibrating Climate Risk」は、気温上昇が2℃前後を超える領域で不確実性が特に大きくなることを示し、金融の実務を慎重さ・頑健性・透明性の方向へ見直すよう求めました。
実績データを見ると、過去30年で83万人以上が極端気象で亡くなり、直接の損失は約4.5兆ドルにのぼります。世界経済フォーラムも、今後10年の最大リスクに極端気象を置いています。日本では金融庁・日本銀行のシナリオ分析や、SSBJ基準による開示の段階的な義務化が進んでいますが、手法の限界を前提に改善を重ねている段階です。
私たち個人にできることは、自分の年金や投資の運用先を確かめ、数字の前提を読み、開示を求める声を上げることです。まず、いま加入している年金や投資信託の運用報告書を1冊開いて、気候変動への考え方が書かれているかを探してみてください。
- モデルの過小評価は、平均気温への偏り、GDP指標の限界、ショックの連鎖の欠落から生じる
- 過去30年の極端気象で、83万人以上が亡くなり、直接損失は約4.5兆ドルに達した
- 物理的な気候リスクは分散投資で消せず、年金基金にも相関して及ぶ
- 日本では金融庁のシナリオ分析とSSBJ基準の段階的な義務化が進行中
- 運用報告書や方針の開示、数字の前提を確かめることが個人にもできる
参考文献
- Carbon Tracker Initiative「Recalibrating Climate Risk」(2026年)
- Germanwatch「Climate Risk Index 2026(要約版)」(2025年)
- Down To Earth「Extreme weather events world’s most severe long-term risk for third year in a row(WEF Global Risks Report 2026)」(2026年)
- 金融庁「『気候関連リスクに関する金融機関の取組の動向や課題』の公表について」(2025年)
- 金融庁 金融審議会 資料(サステナビリティ開示の義務化)(2026年)
- GPIF「サステナビリティ投資報告(2024年度版)」(2025年)

