近年、気候変動や生物多様性の損失などの深刻な社会問題に対して、新しいアプローチが世界中で注目を集めています。それが「ネイチャーベースドソリューション」です。従来の技術的な解決策とは異なり、自然の力を活用して問題を解決するこの手法は、環境保護と社会課題解決を同時に実現する画期的な考え方として期待されています。
この記事で学べるポイント
- ネイチャーベースドソリューションの基本概念と従来手法との違い
- 都市部や防災分野での具体的な活用事例と効果
- 環境・経済・社会の3つの側面から見たメリットと将来性
ネイチャーベースドソリューションとは
ネイチャーベースドソリューション(Nature-based Solutions、NbS)は、自然の力を活用して社会問題を解決する革新的なアプローチです。国際自然保護連合(IUCN)によって2009年に提唱されたこの概念は、現在世界中で急速に普及しています。
基本的な定義と概念
IUCNは、ネイチャーベースドソリューションを「社会課題に効果的かつ順応的に対処し、人間の幸福および生物多様性による恩恵を同時にもたらす、自然および人為的に改変された生態系の保護、持続可能な管理、回復のための行動」と定義しています。
簡単に言えば、自然を守ることが社会課題の解決につながり、私たちの暮らしを守ることにもつながるということです。この考え方の根底には、健全で適切に管理された生態系が、人間にとって不可欠な恩恵やサービスを提供できるという科学的知見があります。
例えば、森林は二酸化炭素を吸収して気候変動の緩和に貢献し、湿地は洪水を防ぎ水質を浄化します。都市の緑地は気温上昇を抑制し、海岸の砂丘は津波の被害を軽減します。これらの自然の機能を活用することで、人工的な設備だけでは解決困難な問題に対処できるのです。
従来の解決策との違い
従来の解決策との最大の違いは、単一の問題解決だけでなく、複数の課題を同時に解決できる点にあります。例えば、コンクリートの防波堤は津波対策にはなりますが、生態系への影響や維持費用の問題があります。一方、海岸林の整備は津波対策と同時に、生物多様性の保全、二酸化炭素の吸収、観光資源の創出などの複合的な効果をもたらします。
また、ネイチャーベースドソリューションは「人と自然の両方にとってのwin-win」を目指します。自然環境の改善と人間社会の課題解決を対立するものとしてではなく、相乗効果を生み出すものとして捉える点が革新的です。
さらに、IUCNは2020年にネイチャーベースドソリューションのグローバル標準を発表し、政府や企業、NGOによる取り組みを推進しています。この標準では、効果的な実施のための8つの基準と28の指標が示されており、世界共通の枠組みとして活用されています。
ネイチャーベースドソリューションの具体例
ネイチャーベースドソリューションは、都市部から農村部まで、様々な場面で実践されています。その多様な活用例を通じて、自然の力がいかに私たちの生活を支えているかを理解できます。
都市部での取り組み
都市部では、ヒートアイランド現象の緩和や大気汚染の改善にネイチャーベースドソリューションが活用されています。屋上緑化や壁面緑化は、建物の断熱効果を高めながら都市の気温上昇を抑制し、エネルギー消費量の削減にも貢献します。
街路樹の整備は、夏場の気温を2~3度下げる効果があることが確認されており、住民の健康維持と電力消費量の削減を同時に実現します。また、都市公園や緑地は、住民の精神的健康の向上、コミュニティ形成の場の提供、生物多様性の保全拠点としても機能します。
雨水管理においても、透水性舗装や雨庭(レインガーデン)の設置により、都市型洪水の防止と地下水の涵養を図る取り組みが広がっています。これらの施設は、従来の下水道システムへの負荷を軽減しながら、都市の水循環を健全化します。
防災・減災における活用
自然災害の多い日本において、ネイチャーベースドソリューションは特に重要な意味を持ちます。海岸林は津波のエネルギーを減衰させ、内陸部への被害を軽減します。東日本大震災では、海岸林があった地域で津波の被害が軽減されたことが報告されています。
山間部では、適切な森林管理により土砂災害を防止できます。健全な森林は土壌の保水力を高め、表面流出を抑制することで、洪水や土砂崩れのリスクを大幅に削減します。また、河川流域での湿地の復元は、洪水時の水量調節機能を発揮し、下流域の洪水被害を軽減します。
これらの自然を活用した防災対策は「生態系を活用した防災・減災(Eco-DRR)」と呼ばれ、従来のコンクリート構造物と比較して、長期的な維持費用が安く、環境への負荷も少ないという利点があります。
気候変動対策への応用
気候変動対策においても、ネイチャーベースドソリューションは重要な役割を果たします。森林の保護・拡大は、大気中の二酸化炭素を吸収・固定することで、温室効果ガスの削減に直接貢献します。
湿地や草原の復元も、土壌中に大量の炭素を蓄積することができ、気候変動の緩和策として効果的です。特に泥炭地の保全は、火災による大量の二酸化炭素放出を防ぎ、気候変動対策上極めて重要とされています。
農業分野では、アグロフォレストリー(農林複合経営)や被覆作物の活用により、農地の炭素固定能力を向上させながら、作物の収量向上や土壌改良を同時に実現する取り組みが注目されています。
ネイチャーベースドソリューションのメリット
ネイチャーベースドソリューションが世界中で注目される理由は、環境・経済・社会の3つの側面で多様なメリットをもたらすからです。従来の単一目的の解決策と比較して、その総合的な価値は計り知れません。
環境面での効果
環境面では、生物多様性の保全と生態系サービスの向上が最も重要なメリットです。自然環境の保護や復元により、野生生物の生息地が確保され、絶滅危惧種の保護にもつながります。また、健全な生態系は、大気浄化、水質浄化、土壌形成、受粉サービスなど、人間社会に不可欠な機能を提供し続けます。
気候変動対策としての効果も顕著です。森林や湿地による炭素固定は、人工的な技術と比較して費用対効果が高く、長期間にわたって安定した効果を発揮します。さらに、自然環境は気候変動による影響を緩和する適応策としても機能し、極端気象現象への耐性を高めます。
循環型社会の実現にも貢献します。自然のプロセスを活用することで、廃棄物の処理や資源の循環利用が促進され、持続可能な社会システムの構築につながります。
経済面での利点
経済面では、長期的なコスト削減効果が大きな魅力です。例えば、湿地による水質浄化は、人工的な浄水施設の建設・運営費用と比較して大幅にコストを削減できます。ニューヨーク市では、キャッツキル山地の森林保全により、約60億ドルの浄水施設建設費を節約したことで有名です。
維持管理費用の面でも優位性があります。コンクリート構造物は定期的な補修や更新が必要ですが、適切に管理された自然環境は自己修復機能を持ち、長期間にわたって機能を維持できます。
新しい産業や雇用の創出効果も見逃せません。環境修復事業、エコツーリズム、持続可能な農林水産業など、自然を活用した経済活動は地域経済の活性化に大きく貢献します。世界経済フォーラムの調査によると、自然関連産業は世界経済の50%以上に影響を与えているとされています。
社会面での価値
社会面では、住民の健康と福祉の向上が重要な価値です。緑地や自然環境への接触は、ストレス軽減、免疫力向上、精神的健康の改善などの効果が科学的に証明されています。特に都市部における緑化は、大気汚染の軽減や騒音の低減により、住民の生活の質を大幅に向上させます。
コミュニティの結束強化にも寄与します。公園や緑地の管理・活用を通じて住民同士の交流が促進され、地域の社会的結束が強まります。また、地域の自然環境に対する理解と愛着が深まることで、環境保全意識の向上と持続可能なライフスタイルの普及が期待できます。
教育面での価値も高く、自然環境は生きた教材として子どもたちの環境学習や科学教育に活用できます。これにより、次世代の環境意識の醸成と持続可能な社会の担い手育成が可能になります。
日本での取り組み事例
日本では、政府から地方自治体、企業まで幅広い主体がネイチャーベースドソリューションに取り組んでいます。特に自然災害が多い日本の特性を活かした独自の展開が注目されています。
行政による導入事例
国レベルでは、環境省が2022年に「30by30目標」の達成に向けたネイチャーベースドソリューションの推進方針を策定しました。これは、2030年までに陸域・海域の30%を保全する国際目標の実現を目指すものです。
東京都では「Tokyo-NbSアクション」を展開し、都市部での具体的な取り組みを推進しています。皇居外苑周辺での緑化推進、多摩川流域での湿地復元、島しょ部での海洋保護区設定など、多様な環境に応じた施策を実施しています。
横浜市では、「横浜グリーンインフラ」として、雨水管理と都市緑化を組み合わせた取り組みを展開しています。市内各所に設置された雨庭や透水性舗装により、都市型洪水の軽減と生物多様性の保全を同時に実現しているのが特徴です。
地方部では、石川県が「いしかわ版里山づくりISO」を通じて、里山環境の保全と活用を図っています。地域住民と協力した森林管理により、生物多様性の保全と防災機能の向上を両立させています。
企業の取り組み
民間企業でも積極的な取り組みが始まっています。トヨタ自動車では、工場周辺での「トヨタの森」プロジェクトを通じて、地域の生態系保全と従業員の環境教育を実施しています。また、サプライチェーン全体での森林保全活動にも力を入れています。
建設業界では、大林組が「生物多様性に配慮した建設技術」を開発し、建設現場での環境負荷軽減と生態系保全を両立させています。特に、在来種を活用した法面緑化技術は、防災機能と生物多様性保全の両方に効果を発揮しています。
金融業界でも、三井住友銀行がTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)に参画し、自然資本への投融資判断にネイチャーベースドソリューションの観点を取り入れています。これにより、環境負荷の少ない事業への資金供給を促進しています。
小売業界では、イオングループが「イオン 生物多様性方針」に基づき、店舗の緑化と地域の生態系保全を組み合わせた取り組みを展開しています。屋上緑化による省エネ効果と、地域の野鳥や昆虫の生息地提供を同時に実現しています。
課題と今後の展望
ネイチャーベースドソリューションの普及に向けては、まだ多くの課題が残されています。しかし、これらの課題を乗り越えることで、より持続可能な社会の実現が期待されています。
現在の課題
最大の課題は、効果の定量化と評価方法の確立です。自然環境による恩恵は多面的で長期的であるため、従来の経済評価手法では適切に価値を測定することが困難です。例えば、森林の炭素固定量は比較的計測しやすいものの、生物多様性保全や景観価値、住民の精神的健康への影響などは数値化が難しく、投資判断の障壁となっています。
資金調達の問題も深刻です。ネイチャーベースドソリューションは初期投資から効果発現まで時間がかかるため、短期的な投資回収を求める民間資金の参入が進みにくい状況があります。また、公的資金についても、部局をまたがる複合的な効果のため、予算配分や責任分担が複雑になりがちです。
技術的な課題として、地域の生態系特性に応じた最適な手法の選択と実施技術の確立があります。同じ問題でも、気候や地形、生物相の違いにより最適解は大きく異なるため、地域に根ざした専門知識と経験の蓄積が不可欠です。
社会的な理解不足も課題の一つです。ネイチャーベースドソリューションの概念自体がまだ新しく、一般市民や政策決定者への普及が十分ではありません。特に、従来の技術的解決策に慣れ親しんだ関係者にとって、自然を活用したアプローチへの転換は心理的なハードルが高い場合があります。
将来の可能性
一方で、将来に向けた可能性は非常に大きく広がっています。デジタル技術の発達により、生態系の状態や変化を詳細にモニタリングできるようになり、効果の可視化と定量評価が大幅に改善されつつあります。衛星データやAI技術を活用することで、広域での生態系サービスの評価や予測が可能になり、より精度の高い計画策定と効果測定が実現できます。
金融分野では、グリーンボンドや自然債券(ネイチャーボンド)などの新しい金融商品の開発が進んでいます。これにより、民間資金のネイチャーベースドソリューションへの流入が加速し、大規模なプロジェクトの実現可能性が高まっています。
国際的な政策枠組みも整備が進んでいます。気候変動枠組条約や生物多様性条約において、ネイチャーベースドソリューションが重要な解決策として位置づけられ、各国の政策に反映されつつあります。特に、カーボンクレジット制度における自然由来のクレジットの活用拡大により、市場メカニズムを通じた推進が期待されています。
教育分野での普及も重要な要素です。大学や研究機関でのネイチャーベースドソリューションに関する教育プログラムの充実により、専門人材の育成が進んでいます。また、市民参加型の環境モニタリングや保全活動を通じて、社会全体の理解と参画が促進されています。
まとめ
ネイチャーベースドソリューションは、自然の力を活用して社会課題を解決する革新的なアプローチとして、世界中で注目を集めています。従来の技術的解決策とは異なり、環境・経済・社会の3つの側面で同時に価値を創出し、持続可能な社会の実現に大きく貢献する可能性を秘めています。
都市部でのヒートアイランド対策から、自然災害の防災・減災、気候変動対策まで、その応用範囲は極めて広範囲です。日本でも政府・自治体・企業レベルで様々な取り組みが始まっており、今後の展開が期待されています。
一方で、効果の定量化、資金調達、技術的課題、社会的理解の促進など、克服すべき課題も多く残されています。しかし、デジタル技術の発達や新しい金融商品の開発、国際的な政策枠組みの整備により、これらの課題解決に向けた道筋も見えてきています。
私たち一人ひとりも、身近な緑化活動への参加や環境に配慮した消費行動を通じて、ネイチャーベースドソリューションの推進に貢献できます。自然と人間が共生する持続可能な社会の実現に向けて、この新しいアプローチに注目し、積極的に関わっていくことが重要です。
参照元
・IUCN日本委員会
https://www.iucn.jp/
・日本自然保護協会オフィシャルサイト
https://www.nacsj.or.jp/partner/2022/12/33421/
・NbS自然に根ざした社会課題の解決策
https://nbs-japan.com/
・ネイチャーポジティブと気候変動適応 – 気候変動適応情報プラットフォーム
https://adaptation-platform.nies.go.jp/private_sector/nature-positive/index.html
・IDEAS FOR GOOD
https://ideasforgood.jp/glossary/nature-based-solutions/
・Tokyo-NbSアクション – 東京都環境局
https://www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp/nature/nbs