企業活動と自然環境の関係がますます注目される中、新たな情報開示の枠組み「TNFD(自然関連財務情報開示)」が登場しました。気候変動に続き、生物多様性や自然資本への企業の影響を「見える化」するこの仕組みは、投資判断や経営戦略に大きな変革をもたらそうとしています。
この記事で学べるポイント
- TNFDの基本的な仕組みと企業が開示すべき内容
- 既存のTCFDとの違いと共通点
- 企業がTNFD対応で得られる具体的なメリット
TNFDの基本概要と目的
TNFDは現代の企業経営において避けて通れない重要な課題となっています。森林破壊、海洋汚染、生物多様性の減少といった自然環境の悪化が、企業の事業継続や収益性に直接的な影響を与える時代になったからです。
TNFDとは何か
TNFD(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures)は、日本語で「自然関連財務情報開示タスクフォース」と呼ばれる国際的な枠組みです。2021年6月に設立され、2023年9月には最終提言となるバージョン1.0が正式に公開されました。
この枠組みの核心は、企業が自然環境に対してどのような影響を与え、逆に自然環境からどのような恩恵を受けているかを数値化し、財務情報として開示することです。たとえば、製造業であれば原材料調達における森林資源への依存度、水資源の利用量、廃棄物による生態系への影響などを具体的に測定・報告します。
現在、世界で1100以上の企業や金融機関がTNFDに参加しており、日本からも多くの上場企業が参画しています。これは単なる環境配慮の表明ではなく、実際のビジネスリスクと機会を正確に把握するための経営ツールとして位置づけられています。
設立背景と目的
TNFDが設立された背景には、深刻化する地球規模の環境問題があります。国連の報告によると、現在の生物多様性の減少速度は過去1000万年の平均を100倍から1000倍上回っており、これは「第6の大量絶滅」とも呼ばれています。
この自然環境の悪化は、企業活動にとって単なる外部要因ではありません。農業関連企業にとって土壌劣化は直接的な生産性低下を意味し、観光業にとって自然景観の破壊は収益の根幹を揺るがします。また、サプライチェーンの複雑化により、一見自然と関係のない業種でも、間接的に自然資本に大きく依存している現実があります。
TNFDの最終目標は「ネイチャーポジティブ経済」の実現です。これは、自然を消費するだけでなく、積極的に自然環境を回復・再生させる経済システムを指します。具体的には、投資家や金融機関が企業の自然への取り組みを正確に評価し、環境に配慮した企業により多くの資金が流れる仕組みを作ることを目指しています。
TNFDとTCFDの違いと関係性
TNFDを理解する上で重要なのが、先行するTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)との関係性です。両者は密接に連携しながらも、それぞれ異なる特徴を持っています。
TCFDとの共通点
TNFDは、TCFDの成功事例を基盤として設計されています。最も重要な共通点は、4つの開示項目という基本構造です。「ガバナンス」「戦略」「リスクと影響の管理」「指標と目標」という4つの柱は、両フレームワークで共通しており、企業がすでにTCFDで蓄積した知識と経験を活用できるよう配慮されています。
また、両者とも企業の「リスク」と「機会」の両面を評価する点でも一致しています。たとえば、森林減少は木材調達コストの上昇というリスクをもたらす一方で、持続可能な森林管理技術を持つ企業にとっては新たなビジネス機会となります。
情報開示の目的も共通しており、投資家や金融機関が適切な投資判断を行えるよう、企業の環境関連リスクと機会を「見える化」することを目指しています。これにより、環境に配慮した企業により多くの資金が流れる市場メカニズムの構築を狙っています。
TNFDの独自性
一方で、TNFDには気候変動とは異なる自然環境特有の課題があります。最も大きな違いは「場所の重要性」です。気候変動は地球規模の現象ですが、自然環境への影響は地域によって大きく異なります。同じ森林伐採でも、熱帯雨林での伐採と人工林での間伐では、生物多様性への影響は全く違います。
そのため、TNFDでは企業の事業活動が行われる具体的な「場所」を特定し、その地域の生態系の特性を考慮した評価を求めています。これは「優先地域(priority locations)」と呼ばれ、生物多様性が豊かな地域や環境的に脆弱な地域での事業活動について、特に詳細な分析と開示を要求しています。
また、TNFDは先住民族や地域コミュニティとの関係性も重視します。多くの自然資源は先住民族の土地に存在し、彼らの伝統的な知識は生物多様性保全に不可欠だからです。企業には、これらのステークホルダーとの適切な関係構築と、彼らの権利への配慮を開示することが求められています。
TNFDの具体的な内容と枠組み
TNFDが企業に求める情報開示は、体系的で実践的な枠組みに基づいています。複雑に見える自然環境との関係性を、段階的なアプローチで整理し、投資家にとって理解しやすい形で報告することが目的です。
4つの開示項目
TNFDの開示項目は、TCFDと同様の4つの柱で構成されていますが、自然環境特有の要素が追加されています。
「ガバナンス」では、企業の取締役会や経営陣が自然関連課題をどのように監督・管理しているかを開示します。特にTNFD独自の要素として、先住民族や地域コミュニティとの人権方針やエンゲージメント状況の報告が求められます。これは、多くの自然資源が先住民族の土地に存在するためです。
「戦略」では、自然関連のリスクと機会が企業の事業戦略にどう影響するかを説明します。重要なのは「優先地域」の特定で、企業のバリューチェーン上で生物多様性が豊かな地域や環境的に脆弱な地域を具体的に明示する必要があります。たとえば、コーヒーチェーンであれば、生産地である熱帯地域の森林生態系への影響を詳細に分析します。
「リスクと影響の管理」では、従来のリスク管理に加えて、企業活動による自然への「影響」も評価対象となります。これは気候変動対策との大きな違いで、企業が自然環境に与える直接的・間接的な影響の特定と管理方法を報告する必要があります。
「指標と目標」では、自然関連課題を測定する具体的な数値目標を設定します。水使用量、廃棄物排出量、生物多様性指数など、業種に応じた適切な指標の選択と継続的なモニタリングが求められます。
LEAPアプローチとは
TNFDが推奨する分析手法が「LEAPアプローチ」です。これは4つのステップの頭文字を取った実践的な評価プロセスで、企業が自然環境との関係性を体系的に把握できるよう設計されています。
「Locate(発見)」では、企業の事業活動と自然環境の接点を地理的に特定します。製造拠点、原材料調達地、販売市場など、バリューチェーン全体を通じて自然と関わる場所を洗い出します。グローバル企業の場合、世界各地の多様な生態系との関係性を把握する必要があります。
「Evaluate(診断)」では、特定した地域での自然への依存度と影響度を定量的に評価します。ENCORE(Exploring Natural Capital Opportunities, Risks and Exposure)などの分析ツールを活用し、業種や事業プロセスごとに自然資本への依存度を数値化します。
「Assess(評価)」では、前段階で特定した依存関係と影響が、企業にとってどの程度のリスクと機会をもたらすかを財務的に評価します。たとえば、水資源への高い依存度は、将来の水不足により事業継続リスクとなる可能性があります。
「Prepare(準備)」では、分析結果を基に対応策を策定し、ステークホルダーへの開示を準備します。この段階で、具体的な数値目標の設定や投資計画の立案も行います。
企業にとってのTNFD対応の意義
TNFD対応は単なる環境配慮の表明ではなく、企業の競争力向上と持続的成長に直結する戦略的投資として位置づけるべきです。短期的なコスト負担を上回る中長期的なメリットが期待できます。
コンプライアンス面での重要性
TNFD対応の緊急性は、規制環境の急速な変化から理解できます。現在、日本の東京証券取引所プライム市場では、TCFD(気候関連財務情報開示)が実質的に義務化されており、TNFDについても同様の流れが予想されています。
EUでは2024年1月から、企業サステナビリティ報告指令(CSRD)に基づく開示が適用され、域内外の企業に生物多様性を含む包括的な環境情報の開示を義務づけています。この規制は売上高1億5000万ユーロ以上の日本企業も対象となるため、グローバル展開する日本企業にとって対応は不可避です。
また、サプライチェーンの観点からも重要性が高まっています。大手企業がTNFD対応を進めると、取引先である中小企業にも同等の情報開示を求める動きが加速します。これは、TCFDの導入過程でも見られた現象で、業種や企業規模を問わず広範囲に影響が及ぶと予想されます。
金融機関の融資判断でも、環境リスクの評価は重要性を増しています。特に、自然資本に大きく依存する農業、林業、水産業、観光業などでは、TNFD対応の有無が資金調達条件に直接影響する可能性があります。
ビジネス機会としてのメリット
TNFD対応は、新たなビジネス機会の創出にもつながります。最も直接的なメリットは、ESG投資資金へのアクセス向上です。世界のESG投資残高は2020年時点で35兆ドルを超えており、このうち自然資本や生物多様性に焦点を当てた投資が急拡大しています。
TNFD対応により、企業は自社の環境負荷を正確に把握し、効率的な資源利用や廃棄物削減を実現できます。これは直接的なコスト削減効果をもたらし、収益性の向上に貢献します。たとえば、水使用量の最適化は上下水道料金の削減につながり、廃棄物の削減は処理費用の節約を実現します。
また、TNFD対応は企業のブランド価値向上にも寄与します。特に消費者向け商品を扱う企業では、環境配慮への取り組みが消費者の購買行動に大きく影響します。若年層を中心に、企業の環境への姿勢を重視する消費者が増加しており、これが売上向上の要因となる場合もあります。
人材獲得の面でも効果が期待できます。就職活動において企業の環境への取り組みを重視する学生が増加しており、TNFD対応は優秀な人材の確保に有利に働く可能性があります。特に、グローバル人材や専門性の高い技術者の採用において、企業の持続可能性への取り組みは重要な判断材料となっています。
日本企業の取り組み状況と課題
日本は世界的にTNFD対応において先進的な位置にあり、政府と企業が連携して積極的な取り組みを進めています。一方で、実際の対応レベルには企業間で差があるのも現実です。
政府・行政の支援体制
日本政府はTNFD普及に向けて包括的な支援体制を構築しています。環境省は2024年10月、TNFDに対して2年間で約50万ドル相当の拠出を決定し、国際的な開示標準化に向けて積極的に貢献する姿勢を示しました。
具体的な支援施策として、企業向けのワークショップ「ツール触ってみようの会」を定期開催しています。このワークショップでは、ENCOREやWWF Biodiversity Risk Filterなど、実際のTNFD分析に使用できるツールの実践的な使い方を学べます。参加企業からは「理論だけでなく具体的な分析手法を習得できる」と高い評価を得ています。
また、2024年3月には農林水産省、経済産業省、国土交通省と連名で「ネイチャーポジティブ経済移行戦略」を策定・公表しました。この戦略は、企業が自然関連課題に取り組む際の具体的な手引きとして機能しており、業種別のアプローチ方法や段階的な導入プロセスを詳しく解説しています。
さらに、「気候関連財務情報開示を活かした自然関連財務情報開示支援モデル事業(ネイチャー開示実践事業)」を通じて、実際にTNFD対応を進める企業への個別支援も実施しています。これにより、企業の実践的なノウハウ蓄積と課題解決を支援しています。
企業の導入事例
2024年1月のダボス会議で発表されたTNFDアーリーアダプターリストでは、世界46カ国320社中、日本企業が最多の80社を占めました。これは日本企業の環境課題への意識の高さを示していますが、同時に将来的な規制化を見据えた戦略的な対応でもあります。
住友商事は総合商社として複雑なサプライチェーンを持つ中で、TNFDのLEAPアプローチを活用して段階的な分析を進めています。特に、資源開発事業における生物多様性への影響評価と、持続可能な調達方針の策定に重点を置いています。
ニッスイ(日本水産株式会社)は水産業という自然資本に直接依存する事業特性を活かし、海洋生態系の保全と事業継続性の両立を図るTNFD対応を進めています。具体的には、漁場の生態系モニタリング結果と財務リスクの関連性を数値化し、投資家への説明資料として活用しています。
一方で、WWFジャパンは「日本企業のアーリーアダプター登録数と実際の取り組みの先進性は分けて考える必要がある」と指摘しています。TCFD対応でも見られたように、賛同表明と実質的な対応レベルには企業間で大きな差があるのが現状です。
金融機関では、農林中央金庫や三菱UFJフィナンシャル・グループが先行してTNFD開示を開始しており、融資審査や投資判断における自然関連リスクの評価基準を明確化しています。これにより、他の金融機関にも同様の動きが波及することが予想されます。
TNFD対応の今後の展望
TNFDは現在任意の枠組みですが、規制環境の変化と国際的な標準化の動きにより、中長期的には実質的な義務化が進む可能性が高いとされています。
義務化の可能性
EUでは2024年1月から企業サステナビリティ報告指令(CSRD)が適用され、域内外の大手企業に生物多様性を含む包括的な環境情報の開示を義務づけています。この規制は売上高1億5000万ユーロ以上の日本企業も対象となるため、すでに一部の日本企業では法的義務として対応が始まっています。
国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)は2024年4月、次期開示基準「S3」のテーマ候補として「生物多様性・生態系・生態系サービス」を特定しました。この基準が完成すれば、気候変動(S2)に続いて自然関連情報の開示が国際的に義務化される可能性があります。
CDPも2024年から、これまで分かれていた質問票を統合し、TNFDフレームワークとの整合性を高めた新たな評価体系を導入しました。CDPの評価は機関投資家の投資判断に大きな影響を与えるため、実質的な開示圧力となっています。
日本国内では、東京証券取引所プライム市場でTCFD開示が実質義務化された経緯を踏まえると、TNFDについても同様の流れが予想されます。金融庁や経済産業省も、ESG投資の拡大とコーポレートガバナンス・コードの改訂を通じて、自然関連情報の開示を促進する方向性を示しています。
企業が取るべき次のステップ
TNFD対応を効果的に進めるためには、段階的なアプローチが重要です。まず第一段階として、自社事業と自然環境の接点を把握することから始めるべきです。製造業であれば原材料調達地の生態系、サービス業であれば事業拠点周辺の環境影響を具体的に特定します。
第二段階では、LEAPアプローチに基づく定量的な分析を実施します。ENCORE、WWF Biodiversity Risk Filter、Global Forest Watchなど、無料で利用できる分析ツールを活用することで、専門知識がなくても基本的な評価は可能です。
第三段階として、分析結果を基にした具体的な目標設定と対応策の策定を行います。水使用量削減、廃棄物削減、持続可能な調達方針の導入など、実現可能な目標から段階的に取り組むことが重要です。
最終段階では、ステークホルダーへの開示と継続的な改善を実施します。投資家、顧客、取引先への説明資料として活用し、フィードバックを基にした継続的な取り組みの改善を図ります。
重要なのは、TNFD対応を単なるコンプライアンス対応ではなく、新たなビジネス機会の創出と競争力向上のための戦略的投資として位置づけることです。自然資本への配慮は、持続可能な事業基盤の構築と長期的な企業価値向上に直結する重要な経営課題となっています。
TNFD対応により、企業は自然環境との共生を図りながら持続的な成長を実現する「ネイチャーポジティブ経営」への転換を進めることができます。これは環境保護と経済発展を両立させる新たな経営モデルとして、今後の企業競争力を左右する重要な要素となるでしょう。
参照元
・WWFジャパン https://www.wwf.or.jp/activities/activity/5525.html
・環境省 https://www.env.go.jp/press/press_03929.html
・環境省 https://www.env.go.jp/earth/datsutansokeiei.html
・日経ESG https://project.nikkeibp.co.jp/ESG/atcl/column/00005/020100427/
・クボタ https://www.kubota.co.jp/sustainability/environment/tnfd/index.html
・日本ガイシ https://www.ngk.co.jp/sustainability/environment-tnfd.html
・Deloitte Japan https://www2.deloitte.com/jp/ja/pages/get-connected/pub/atc/202403/kaikeijyoho-202403-02.html
・Sustainable Japan https://sustainablejapan.jp/2024/08/15/tnfd-biodiversity-2024/102565