「ネイチャーポジティブ」という言葉を目にする機会が増えました。企業のサステナビリティ報告書や政府の政策文書に頻繁に登場し始めていますが、「カーボンニュートラルとどう違うの?」「結局、何をすれば良いの?」と感じている方も多いのではないでしょうか。
ESG投資や非財務開示の現場を取材してきた経験から言うと、ネイチャーポジティブは2022年以降に急速に実装フェーズへ移行した概念です。気候変動とは異なるロジックが必要で、理解が追いついていない企業担当者もまだ多い印象があります。この記事では、定義・国際合意の背景・企業と個人にとっての意味を順番に整理していきます。
「ネイチャーポジティブ」の定義から確認する
まず基本の定義から押さえましょう。「ネイチャーポジティブ」とは、自然(生物多様性・生態系)の損失を止め、さらに回復・増加へと転じさせることを指します。つまり「マイナスをゼロにする」ではなく、「ゼロを超えてプラスにする」ことが目標です。
よくある誤解として「生物多様性を現状維持すれば良い」という理解がありますが、実際はそうではありません。現在の自然の状態は既に損なわれており、現状維持ではマイナスのままです。ネイチャーポジティブは、2030年を基準点として「自然の損失を止め、回復軌道に乗せる」ことを求めています。
この概念は、気候変動対策における「ネットゼロ」に対応するものとして位置づけられることがあります。ただし、CO₂のように一元的に計測できないため、指標の立て方がずっと複雑です。土地利用・淡水・海洋・種の個体数など、複数の次元で自然の状態を把握する必要があります。
なぜ今なのか|COP15と国際合意の背景
「なぜ急にこの言葉が広まったのか?」と疑問に思う方もいるでしょう。背景には、2022年12月にカナダ・モントリオールで開催された生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)での歴史的合意があります。
このCOP15で採択されたのが「昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF:Global Biodiversity Framework)」です。この枠組みには196の締約国・地域が参加し、「30×30目標」と呼ばれるコミットメントが盛り込まれました。これは2030年までに陸と海のそれぞれ30%以上を保護区または自然共生サイトとして保全・管理するという目標です。
日本でも環境省が「生物多様性国家戦略2023–2030」を2023年3月に閣議決定し、ネイチャーポジティブの実現を国家目標として掲げています。この戦略では、30×30目標の達成に向けた自然共生サイト認定制度の整備が明記されており、民間企業の土地・拠点も対象になりうるとされています〔要確認:認定件数等の最新数値〕。
「気候変動の話は聞いてきたけど、生物多様性は別の話では?」と感じる方も多いはずです。ただ、この2つは切り離せません。森林破壊・農地転換・湿地の消失は生物多様性を損なうと同時に、大量の炭素を大気中に放出します。自然を回復させることは、気候変動の緩和策でもあるのです。
TNFDとは何か|企業に求められる「自然の情報開示」
「ネイチャーポジティブと言っても、企業は具体的に何をするの?」という疑問は当然です。ここで重要なのが「TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)」です。
TNFDは、企業が自然・生態系に対してどのような依存・影響・リスク・機会を持っているかを開示するための枠組みで、2023年9月に正式なフレームワークv1.0が公表されました。気候変動に関するTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)の自然版として設計されています。
TNFDが求めることをひとことで言えば、「自然への依存と影響を財務的観点から把握・開示する」ことです。たとえば食品メーカーなら農業原料の調達先での水資源利用・土壌劣化のリスク、建設会社なら工事による生態系への影響などが対象になります。
取材の現場では、「TCFDは何とか対応できたが、TNFDは自社のサプライチェーンと自然の接点をゼロから把握しなければならず、難易度が段違い」という声をよく聞きます。自社だけでは終わらず、調達先の農場・森林・水系まで視野に入れる必要があるためです。日本でもTNFD対応を宣言する企業数は増加傾向にあり、早期採用(アーリーアダプター)の登録件数では日本が世界上位に位置するとされています〔要確認:最新登録件数〕。
「依存」と「影響」を区別して考える
TNFDや企業のネイチャーポジティブ戦略を理解するうえで、「自然への依存」と「自然への影響」を区別することが重要です。ここは混同しやすいポイントなので丁寧に整理します。
自然への依存とは、企業のビジネスが自然のサービス(生態系サービス)に頼っている部分を指します。きれいな水・受粉・気候調整・土壌の養分循環などがその例です。これらが失われると原材料の調達や製造が立ち行かなくなるため、自然は「ビジネスの前提条件」でもあります。
自然への影響は逆方向で、企業活動が生態系・生物多様性に与えるダメージや変化を指します。工場排水・農薬使用・土地転換・外来種の持ち込みなどが典型例です。
この2つは一見似ていますが、対応策が異なります。依存への対処はリスク管理(代替原料・調達先多様化など)であり、影響への対処は自然への負荷削減・修復活動です。両方をセットで考えることが、ネイチャーポジティブ戦略の核心です。
30×30目標と「自然共生サイト」が意味すること
「30×30目標は政府の話では?」と思われるかもしれませんが、実はここに企業・市民が直接関われる仕組みがあります。
日本では環境省が「自然共生サイト」認定制度を2023年度から開始しました。企業の保有地・管理地であっても、生物多様性に貢献していると認められれば自然共生サイトに認定され、30×30の達成面積に計上されます。工場の緑地・社有林・ゴルフ場などが認定を受けた事例も報告されています〔要確認:最新認定件数〕。
「特別な土地を持っていなければ関係ない」という誤解もありますが、そうではありません。サプライチェーンを通じた自然への影響や、製品・サービスによる消費者の選択行動を変えることも、ネイチャーポジティブへの貢献になりえます。
個人・消費者として関われるポイント
「企業や政府の話はわかった。でも自分には何ができる?」という問いは、読者の方から最も多く寄せられる声のひとつです。ネイチャーポジティブは大きなスケールの話ですが、日常の選択と地続きになっています。
消費という観点では、農産物・水産物の調達がとりわけ自然との接点が大きい領域です。MSC認証(海洋管理協議会)・ASC認証(水産養殖管理協議会)・FSC認証(森林管理協議会)など、生態系への影響を審査した認証ラベルの付いた製品を選ぶことは、需要側からサプライチェーンに圧力をかける行動です。スーパーや通販で見かけた際に意識してみてください。
また、「生物多様性オフセット」や「自然再生事業」への寄付・支援も選択肢のひとつです。日本では里山や湿地の保全活動を支援するNPOが各地で活動しており、年会費やクラウドファンディング形式で参加できます。「遠い話だと思っていたが、自分の住む地域の里山が対象になっているとわかって初めて実感が湧いた」という声は、公開情報の中でも多く見られるパターンです。
食の選択という意味では、フードロスを減らすことも間接的にネイチャーポジティブへ貢献します。食料生産は世界の土地利用変化の最大の要因のひとつとされており、廃棄を減らすことは農地の追加拡大圧力を下げることにつながります。
ネイチャーポジティブ経営を進める企業が直面する課題
「企業がネイチャーポジティブを宣言しているのに、本当に実態があるの?」という懐疑的な目線も大切です。非財務開示の現場を見てきた経験から言うと、課題は現時点でも大きく残っています。
最大の課題は「測定・比較可能な指標がない」点です。CO₂排出量はトン単位で集計できますが、「自然の損失」は土地の面積・種の数・水質・生態系の機能など多次元にわたり、単一の数値にまとめられません。TNFDも測定方法を固定しているわけではなく、各企業が自社に合った手法を選んでいる段階です。
もう1つの課題は「サプライチェーンの可視化」です。大企業が直接管理する土地・施設は比較的把握しやすいですが、農業・林業・漁業を担う中小規模の一次産業者まで遡ると、どこでどれだけ自然に影響を与えているかを把握するのは相当な労力を要します。TNFDが高難度と言われる理由のひとつはここにあります。
さらに「グリーンウォッシング」のリスクも見逃せません。自然に触れているように見えるコミュニケーションでも、実際の自然への影響評価が伴っていなければ批判を受けます。欧州では生態系への影響検証を伴わない「自然配慮」訴求への規制強化の動きがあり、日本企業も国際展開する場合はこのリスクを意識する必要があります。
今日からできる1アクション
大きな枠組みを理解したうえで、まず1つだけ試すとすれば「次に魚や木材製品を買うとき、MSC・ASC・FSCの認証マークを探してみる」ことをおすすめします。認証製品はスーパーの鮮魚コーナーや紙製品にも広がっており、特別な手続きは不要です。購入という意思表示が、認証を取得したサプライヤーへの市場シグナルになります。
企業担当者の方なら、まず自社の主要原材料(農産物・水産物・木材・鉱物)の調達先地域を地図に落とし、「生物多様性ホットスポット」と重なっていないかを確認することが第一歩です。環境省やWWFが公開している生物多様性リスクマップを活用できます。
まとめ|ネイチャーポジティブを理解するための5つのポイント
- ネイチャーポジティブとは「自然の損失をゼロにする」ではなく「2030年を基点に自然を回復軌道へ転じさせる」こと
- 2022年COP15での昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF)採択と、30×30目標が国際的な根拠となっている
- 企業には自然への「依存」と「影響」の両面を把握・開示するTNFDフレームワークへの対応が求められ始めている
- 日本では環境省の「自然共生サイト」認定制度が始まり、企業の管理地も保全面積に計上できる
- 個人レベルではMSC・ASC・FSC認証製品の選択・食品廃棄の削減・地域保全活動への参加が身近な関わり方になる
気候変動対策と並んで、自然の回復は2020年代後半の企業経営・政策・消費の共通テーマになっています。「難しそう」と感じるのは当然ですが、まず定義と国際的な枠組みを押さえるだけで、企業のリリースやニュースの読み方が変わってくるはずです。次に目に入った関連ニュースで、「これはTNFDの話か、30×30の話か」を意識してみてください。

