自然資本とは、森林・水・土壌・海・生き物など、経済活動を足元で支える自然の蓄えを「資本」として捉える考え方です。この自然資本を守り、損失を止めて回復へ向かわせる方向がネイチャーポジティブで、2026年の今は企業の経営課題として語られる場面が一気に増えました。
いまこの瞬間も、生物多様性条約の第17回締約国会議(COP17)がアルメニアのエレバンで開かれています。会期は10月19日から30日までで、昆明・モントリオール生物多様性枠組(KM-GBF)の進み具合を世界で初めて点検する場です。この記事では、ニュースの断片だけでは見えにくい「結局、企業は何を求められているのか」「日本ではどこまで制度が整ったのか」「担当者でない人は何を選べばよいのか」を順に整理します。
いま何が起きているのか|COP17で初めて行われる世界の点検
COP17の最大の特徴は、KM-GBFの実施状況を世界全体で振り返る「グローバルレビュー」が初めて行われることです。気候変動の分野で各国の取り組みを集計して点検するグローバル・ストックテイクに近い位置づけだと、国際環境団体IISDの解説では紹介されています。会期は10月30日までなので、結果の全体像は閉幕後に確認する必要があります。この記事の執筆時点では、合意内容を前提にした記述は避けています。
2030年に向けた約束のおさらい
KM-GBFは2022年12月に採択され、2030年までに自然の損失を止めて回復軌道に乗せ、2050年に「自然と共生する世界」を目指すと定めています。企業に関わる項目としては、大企業や金融機関に対して、自然への依存・影響・リスクを評価し開示するよう促すターゲット15があります。資金面では、あらゆる資金源から年間2,000億ドルを動員するという目標が置かれています。
愛知目標のときと何が違うのか
前身の愛知目標は多くの項目が未達に終わり、その一因として、進み具合の確認が各国任せだったことが挙げられてきました。KM-GBFでは、各国が国別の戦略(NBSAP)と国別報告書を出し、それを束ねて世界全体を点検する仕組みを最初から組み込んでいます。IISDの会議前解説は、各国が掲げた国別目標を足し合わせても枠組みが求める水準に届いておらず、進み方は地域や国によって差があると指摘しています。資金動員の議論が最も難航しそうだとも述べられています。
このため、COP17の結果は「環境省や外務省だけが見ればよい話」ではなくなっています。点検で不足が示された分野は、各国が規制・補助・開示ルールを強める方向に動きやすく、その影響は最終的に企業の調達・投資・情報開示に降りてくるからです。
自然資本が「経営課題」と呼ばれる理由
自然資本が環境部門の担当を超えて経営の議題になる理由は、事業そのものが自然に寄りかかっているからです。世界経済フォーラム(WEF)が2020年に公表した報告書は、世界のGDPの半分超にあたる約44兆ドルの経済価値が、自然に中程度または高い度合いで依存していると推計しました。建設、農業、食品・飲料が上位に挙がっており、食品の原料、水、土壌、授粉といった、事業の前提となる部分が自然に支えられていることがわかります。
失われているのは「前提」のほう
その自然は減り続けています。WWFの「生きている地球レポート2024」は、1970年から2020年の50年間で、調べた野生生物の個体群の大きさが平均で73%小さくなったと報告しました。この数字は「73%の種が絶滅した」という意味ではなく、監視された個体群の相対的な大きさの平均変化です。それでも、森林・淡水・海の生き物が長期にわたって減っている傾向は読み取れます。
気候と同じ手順では扱いにくい
自然の課題には、気候変動にはない難しさがあります。温室効果ガスは単位をそろえて合計できますが、自然は場所ごとに状態が違います。同じ「森林1ヘクタール」でも、どの流域にあるかで水の供給や災害の防ぎ方に与える意味が変わります。そのため企業は、自社がどの地域のどの自然に頼り、どの地域に影響を与えているかを、拠点やサプライチェーンの単位で調べる必要があります。
ネイチャーポジティブという考え方そのものや、個人・企業それぞれの行動の全体像は、次の記事で詳しく扱っています。
開示のルールが動く|TNFDからISSBへ
自然への依存や影響を財務の言葉で開示する枠組みが、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)です。2023年9月に最終提言v1.0が公表され、自然との接点を洗い出して評価する手順としてLEAPアプローチが示されました。LEAPは、自然との接点を発見し(Locate)、依存と影響を診断し(Evaluate)、リスクと機会を評価し(Assess)、対応と報告を準備する(Prepare)という4段階です。TNFD自体は任意の枠組みで、使うかどうかは企業が決めます。
日本は採用企業数で先頭グループ
環境省の発表では、2025年4月11日時点でTNFDアダプター(TNFDに沿った開示を行う意思を表明した組織)は世界で562社、うち日本が154社で世界最多でした。その後も増加が続いており、2026年9月に公表されたTNFDの年次状況報告では、TNFDに沿った開示を実施している組織が前年の倍にあたる1,154に達し、アダプターは802になったと紹介されています。ただし後者は二次報道を通じた数字で、TNFD原典での確認を前提にしてください。
ISSBが自然関連の開示案を公表
もう一つの動きが、IFRS財団傘下の国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)です。KPMGの解説によれば、ISSBが示した自然関連開示の提案は、新しい基準ではなく「プラクティス・ステートメント」の形をとり、TNFDの提言を土台にしています。IFRS S1を基礎にS2を補う位置づけで、意見募集は2027年2月19日までです。適用を宣言した企業は要求事項をすべて満たす必要があり、各国の規制当局が自国の制度に取り込む余地もあるとされています。
つまり、任意の枠組みだったTNFDの考え方が、国際的な財務報告のルールに近い形へ寄っていく流れです。日本の制度への取り込み方は今後の議論になるため、動向を追う価値があります。金融の側から見た生物多様性とTNFDの読み解きは、こちらの記事が参考になります。
日本の制度と実践|4省戦略から自然共生サイトまで
日本では、国の戦略、法律、民間の実践がそろい始めています。環境省・農林水産省・経済産業省・国土交通省の4省は2024年3月に「ネイチャーポジティブ経済移行戦略」をまとめ、自然資本に立脚した企業価値の創造を掲げました。環境省はこの戦略にもとづき、企業向けの勉強会やモデル事業でTNFD開示を後押ししてきました。2024年10月には、TNFDの活動に約50万ドル相当を拠出することも公表しています。
自然共生サイトは法律に基づく制度へ
民間の取り組みを国が認める仕組みである「自然共生サイト」は、2025年4月施行の「地域生物多様性増進法」で法律上の制度になりました。環境省が2026年6月30日に発表した令和8年度第1回の認定では56か所が加わり、累計は610か所です。認定のうち増進活動実施計画55件の内訳は維持47、回復5、創出3で、市町村がまとめる連携計画1件は回復でした。守るだけでなく、手入れが止まった場所を回復したり、新たな自然を生み出したりする計画が、少数ながら入り始めています。
開示は増えたが、次の段階で差が出ている
開示件数が伸びる一方で、内容の課題も指摘されています。WWFジャパンの2025年12月のセミナー資料は、「開示すること」に力が注がれ、トレーサビリティの確保や、自然へのマイナスの影響を避けて減らすための目標設定が遅れているという問題意識を示しています。たとえば食品企業の多くは農場を持たず、生産者から調達するため、原料がどの土地で育ったかをたどる作業に時間がかかります。
地域の動きでは、自治体が独自の指針や認定制度で企業を後押しする例も増えています。ただし本記事で数字を確認できたのは国の制度までのため、自社の拠点がある自治体の取り組みは、各自治体の公式ページで確かめてください。
開示のあとにつまずきやすい3つの点
開示に取り組み始めた企業が、次の段階でよく迷う点があります。批判ではなく、担当者の相談で目立つ「つまずきの型」として整理します。
開示の完成が目的になってしまう
TNFDの報告書を発行すると、一区切りついた気持ちになりがちです。しかし開示は、自然との接点を調べた結果を示す手段にすぎません。そこから調達方針の見直し、拠点の管理、サプライヤーとの対話につなげて初めて、自然の損失を止める行動になります。WWFジャパンが目標設定の遅れを指摘しているのは、まさにこの部分です。
気候変動の対応をそのまま当てはめる
排出量のように一つの指標で追う発想を、自然に当てはめると行き詰まります。場所ごとに状態も影響も違うため、まず優先する地域と事業を絞り、そこから精度を上げる進め方が現実的です。最初から全拠点・全原料を完璧に調べようとすると、手が止まりやすくなります。
寄付や植林で相殺できると考えてしまう
自然の保全活動への支援は有意義ですが、自社の事業が与える影響を減らす努力の代わりにはなりません。ネイチャーポジティブの基本は、まず悪影響を回避し、減らし、そのうえで回復や再生に取り組むという順序です。生物多様性クレジットのような資金の仕組みも、信頼できる質の確保が国際的な課題で、制度づくりが進んでいる段階です。
経営課題として動き出す4つの手順
自然資本を経営課題として扱うとき、最初の1年でやることは次の4つに絞れます。担当部署が1〜2人でも始められる順番です。
事業と自然の接点を洗い出す
まず、主な原材料、水の使用量が多い工程、土地を使う拠点を書き出します。LEAPの最初の段階にあたる作業で、完全な網羅は不要です。売上や調達額の大きいものから上位を選ぶだけでも、議論の土台になります。
依存と影響の大きい場所を特定する
次に、洗い出した接点のうち、自然への依存や影響が大きく、かつ状態が悪い、あるいは保護価値の高い地域に近いものを選びます。この段階では、環境省の資料やTNFDのガイダンスで示される評価ツールが役立ちます。生態系サービスと企業開示の関係は、こちらの記事に詳しくまとまっています。
経営会議で議題にして担当役員を決める
自然関連のリスクと機会を、気候変動と同じ会議体で扱えるようにします。担当役員を決め、年1回は取締役会に報告する流れをつくると、調達や財務の部署も動きやすくなります。
小さな目標と測り方を先に決める
最後に、優先した原料や拠点について「どの時点までに何をそろえるか」を決めます。たとえば、重要原料の産地情報をサプライヤーに提出してもらう、自社拠点の緑地管理を見直す、といった行動単位の目標です。数字の精度は後から上げても遅くありません。
企業の外にいる私たちにできること
自然資本の話は企業の担当者だけのものではありません。企業が動く最大の理由は、顧客・投資家・取引先がそれを求めることだからです。
買い物では、認証と産地の説明を見る
水産物のMSC、森林由来の製品のFSC、パーム油のRSPOなど、原料の持続可能性を第三者が確認する認証ラベルがあります。ただし、ラベルがあれば万能というわけではありません。ラベルは出発点と考え、企業の公式サイトで産地や調達方針の説明があるかも合わせて確かめると、グリーンウォッシュに惑わされにくくなります。
お金では、開示の内容を見て選ぶ
投資信託や預貯金の運用先を選ぶ場面では、運用会社や金融機関が自然関連の情報をどこまで示しているかが手がかりになります。TNFDの考え方に沿った開示を公表している金融機関も、日本では増えています。商品説明を読む際は、「自然への影響をどう評価しているか」という一文があるかを探してみてください。
地域では、身近な自然共生サイトを知る
お住まいの地域に自然共生サイトがあれば、公開されている見学会や活動に参加できる場合があります。環境省の認定一覧で所在地を調べられます。自然の価値を、数字だけでなく体験として知ることは、企業の取り組みを見る目も育ててくれます。
まとめ
2026年のCOP17は、世界で初めて、2030年の約束の進み具合を全体で点検する場です。結果が出るまでは断定できませんが、点検で不足とされた分野は、規制や開示ルール、金融の評価に反映されやすくなります。自然資本が経営課題と呼ばれるのは、事業が自然に依存し、その自然が減っているという事実が、財務情報として問われる流れが国際的に固まりつつあるからです。
日本では、4省の経済移行戦略、地域生物多様性増進法、610か所に広がった自然共生サイトなど、土台は整ってきました。一方で、開示に力が偏り、サプライチェーンの追跡や目標設定が遅れているという課題も指摘されています。大切なのは完璧な報告書ではなく、優先する場所を絞り、行動に結びつけることです。
企業の外にいる私たちも、買い物・お金・地域のどこかで一つ選び方を変えるだけで、企業に届くメッセージになります。まず1つだけ、よく買う商品の産地や認証を調べてみてください。
- COP17は、KM-GBFの進み具合を世界で初めて点検する場で、結果は企業の開示や調達ルールに波及しやすい
- 世界GDPの半分超が自然に依存しており、自然資本は財務に関わる経営課題になっている
- TNFDの考え方は、ISSBの提案を通じて国際的な財務報告のルールへ近づいている
- 日本は自然共生サイトが610か所に達した一方、開示の次の段階の行動が課題とされる
- 企業は「接点の洗い出し→優先地域の特定→経営課題化→小さな目標」の順で始められる
参考文献
- UNCCD「UN Biodiversity COP17」(2026年)
- IISD「What to Expect at the UN Biodiversity Conference (CBD COP 17)」(2026年)
- 環境省「地域生物多様性増進法に基づく「自然共生サイト」の認定(令和8年度第1回)について」(2026年)
- 環境省「TNFDイベント「TNFD開示とその先:世界と日本の最新状況と今後の展開」の開催について」(2025年)
- KPMG「ISSB nature reporting」(2026年)
- Enviliance「Global TNFD Releases Its 2026 Status Report on Nature-Related Disclosure」(2026年)
- WWFジャパン「生きている地球レポート2024 ファクトシート」(2024年)
- WWFジャパン「サステナブル経営に関するセミナー資料」(2026年)
- 世界経済フォーラム「Nature Risk Rising」(2020年)




