自然資本とは、森林や土壌、水、大気、生きものたちがつくる生態系全体を、経済活動を支える「資産」として捉える考え方です。大学院で環境政策を学んでいたとき、この言葉を「生物多様性の言い換えだろう」と軽く受け止めていた時期があり、後になって国の政策資料を読み直して認識を改めた経験があります。ここでは定義の確認にとどまらず、日本の政策や企業の動き、そして個人が日常でできる関わり方まで整理していきます。
自然資本とは経済を支える見えない資産という考え方
自然資本という言葉は、森林や漁場、土壌、水資源といった自然のストック(蓄え)を、人的資本や金融資本と並ぶ経済の基盤として位置づける発想から生まれています。イギリスの環境シンクタンクなどが提唱してきた「五つの資本(自然資本・人的資本・社会関係資本・製造資本・金融資本)」というモデルでは、自然資本はほかの資本の土台にあるものとして描かれます。
環境省も自然環境や生物多様性に関する政策のなかで、森林や水、土壌などが生み出す恵みを「生態系サービス」と呼び、供給サービス(食料や水など)、調整サービス(気候の安定など)、文化的サービス(レクリエーションや景観など)、基盤サービス(土壌形成や物質循環など)の四つに整理してきました。自然資本はこうしたサービスを生み出す「元手」にあたる概念だと考えると理解しやすくなります。
なぜ自然資本がいま注目されているのか 気候変動対策だけでは足りない理由
これまで企業のサステナビリティ対応は、CO2排出量の削減を中心とした気候変動対策に比重が置かれてきました。ところが気候変動と生態系の劣化は互いに影響し合っており、森林破壊や土壌劣化を放置したままではカーボンニュートラルの実現も難しくなるという指摘が国際的に広がっています。世界経済フォーラムの報告書では、世界のGDPの半分以上にあたる約44兆ドル相当が自然に中程度ないし高度に依存しているとの試算が示されています。数字の厳密な検証は難しいものの、サプライチェーンの多くが水資源や農地、漁業資源に依存している実態を考えると、感覚的にも納得できる指摘だと感じます。
世界の動き TNFDとCOP15が示した30by30
こうした流れを受けて2021年に発足したのが、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)です。TNFDは企業や金融機関が自然資本への依存や影響、リスクと機会をどう開示すべきかについて、2023年9月に最終提言を公表しました。気候分野で先行したTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)の枠組みを参考にしながら、自然資本版の情報開示ルールを整備しようという試みです。
2022年12月には、生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)第2部で「昆明・モントリオール生物多様性枠組」が採択され、2030年までに陸と海のそれぞれ30%を保全する「30by30」目標が国際的な合意として掲げられました。この目標は自然資本という資産を、これ以上目減りさせずに次世代へ引き継ぐための世界共通の物差しとして機能しています。
日本の動き 生物多様性国家戦略2023-2030の位置づけ
日本政府も2023年3月に「生物多様性国家戦略2023-2030」を閣議決定し、30by30目標の達成に向けて、国立公園などの保護地域だけでなく、民間の森林や企業緑地なども対象にした「自然共生サイト」の認定を進めています。自然資本という考え方は、この国家戦略のなかで生態系サービスの持続的な利用を評価する軸として位置づけられており、単なる自然保護の話にとどまらず、地域経済や産業政策とも結びついている点が特徴です。
自然資本、生物多様性、ESGは何が違うのか 混同しやすい3つの言葉
環境報告書や統合報告書を読み比べていると、自然資本と生物多様性、ESGという三つの言葉が同じ意味で使われている場面によく出くわします。自分自身、初めて自然資本会計の資料に触れたときはこの違いを整理できておらず、指標の読み方を誤って理解していたことがありました。混同を避けるために、それぞれの位置づけを分けて考えてみます。
自然資本はストック、生態系サービスはフロー
自然資本が森林や水、土壌といった蓄えそのものを指すのに対し、そこから得られる木材や水質浄化、気候調整といった恵みは「生態系サービス」というフローにあたります。会計にたとえるなら、自然資本は貸借対照表の資産、生態系サービスは損益計算書の収益に近いイメージだと捉えると整理しやすくなります。
生物多様性は自然資本の一部にすぎない
生物多様性は、自然資本を構成する要素のひとつです。種の多様性や生態系の多様性は自然資本の「質」を左右しますが、自然資本にはそれ以外にも土壌の肥沃度や水量、大気の状態など、生きもの以外の要素も含まれます。生物多様性の保全は自然資本を守るための重要な手段ですが、両者はイコールではありません。
ESGは自然資本を測るための開示の器
ESG(環境・社会・ガバナンス)は投資判断のための評価軸であり、自然資本そのものを指す言葉ではありません。TNFDが目指しているのは、自然資本への依存やリスクをESGの「E」の枠組みのなかで具体的に開示できるようにすることです。つまりESGは自然資本を可視化するための「入れ物」であり、自然資本という中身とは区別して考える必要があります。
日本企業に見る自然資本経営の広がり
企業の環境報告書を継続的に読んでいると、業種によって自然資本への向き合い方がかなり異なることに気づきます。食品や飲料の分野では、パーム油や紙原料の調達方針のなかで、森林破壊に関わらない原材料を選ぶ「森林リスクコモディティ」への対応が広がってきたとされています。具体的にはFSC(森林管理協議会)認証やMSC(海洋管理協議会)認証を取得した原材料の使用を掲げる企業が増えており、パッケージにこうしたマークを見かける機会も増えてきました。
不動産や建設の分野では、社有林や開発用地の生物多様性影響評価を環境報告書に盛り込む動きが見られます。小売業では水資源の使用量やプラスチック使用量の開示に加え、TNFDの枠組みに沿った自然関連リスクの分析を試験的に始めている企業も出てきています。ただし業界全体で足並みが揃っているわけではなく、開示の詳しさには企業間でかなりの差があるというのが、複数の報告書を読み比べてきた実感です。
個人ができる自然資本との付き合い方 今日から試せること
自然資本という言葉は壮大に聞こえますが、個人が関われる接点は身近なところにあります。次のような行動は、特別な知識がなくても今日から始められます。
- スーパーやアパレル店で買い物をするとき、FSCマークやMSCマーク、レインフォレスト・アライアンス認証のマークがついた商品を1つ探してみる
- 食べきれる量を買う、期限が近い商品から使うなど、食品ロスを減らす工夫を1つ実践する
- 投資信託や取引先企業を選ぶとき、統合報告書やサステナビリティ報告書に「TNFD」「自然資本」という言葉が出てくるかどうかを確認してみる
- 自治体や企業が公開している自然共生サイトや里山保全活動の情報を調べ、居住地の近くの取り組みを知る
これらはどれも小さな行動ですが、自然資本という考え方を「難しい経済用語」から「自分の消費や選択とつながっているもの」に変えていく第一歩になります。まずは次の買い物のときに、パッケージの認証マークを1つ探してみてください。
自然資本という視点を暮らしと仕事に持ち帰る
自然資本は、気候変動対策の次に来る新しい流行語ではなく、経済活動そのものを足元から支える基盤を指す考え方です。TNFDや生物多様性国家戦略といった枠組みは、この基盤をどう測り、どう守るかという試行錯誤の途上にあります。完璧な指標がまだ整っていないからこそ、企業の開示を鵜呑みにせず、複数の情報源を見比べる姿勢が読者にとっても役立つはずです。
- 自然資本は森林・水・土壌など、経済活動を支える「ストック」の概念
- TNFDと生物多様性国家戦略2023-2030が、自然資本を可視化・保全する国内外の枠組み
- 生物多様性・ESGとは異なる概念であり、FSC・MSC認証などから日常でも関われる
本記事はMIRASUS編集チームが公的資料・企業公式情報をもとに作成しています。
参考文献
- 環境省「自然環境・生物多様性」政策ページ(環境省公式サイト、https://www.env.go.jp/nature/biodic/)
- TNFD「Taskforce on Nature-related Financial Disclosures」公式サイト(https://tnfd.global/)
- 生物多様性条約事務局(CBD)公式サイト(https://www.cbd.int/)

