「人権DD」という言葉を取引先からの質問票や社内の会議資料で目にして、何から手をつければいいのか迷っている担当者は多いようです。人権デューデリジェンス(人権DD)は、自社と取引先の事業が人の権利を傷つけていないかを継続的に点検し、見つけた問題を防いだり是正したりする仕組みです。この記事では「とは」の説明を入口に留め、日本企業が実際に参照する経済産業省のガイドラインの流れ、数字で見る背景、つまずきやすい点、今日から始められる1アクションを順に整理します。
人権DDとは何か|企業に求められる「継続的な点検」
人権DDは、財務や法務で行うデューデリジェンス(買収前の調査など)の考え方を人権に当てはめたものです。投資家や自社の利益を守るための調査ではなく、働く人や地域住民など、事業の影響を受ける人の権利を守ることが目的です。ここが一般的なリスク管理との大きな違いです。
一度きりの調査で終わらせず、「特定し、防ぎ、確かめ、伝える」という流れを繰り返す点も特徴です。
国際的な出発点は国連指導原則
土台になっているのは、2011年に国連人権理事会で承認された「ビジネスと人権に関する指導原則」です。この原則は3つの柱で構成されています。
- 国家が人権を保護する義務2. 企業が人権を尊重する責任3. 被害を受けた人が救済を受けられること
人権DDは、2つ目の「企業の責任」を果たすための中心的な手段として位置づけられています。
日本の位置づけは「法律」ではなく「政府指針」
日本政府は2020年10月に「ビジネスと人権に関する行動計画」を公表しました。2022年9月には経済産業省が「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を策定しています。このガイドラインは法的拘束力のある法律ではなく、企業が参照する政府指針です。ただし、対象は企業規模や業種を問わず、海外取引のない企業や中小企業も含まれると整理されています。
つまり「法律で義務付けられていないから後回し」とは言いにくい状況です。取引先の大企業や海外の法制度を通じて、実質的な要請が届くためです。
なぜ今、人権DDなのか|数字と各国の法制度で見る背景
背景には、サプライチェーンのどこかで人権侵害が起きているという現実があります。国際機関の推計と、各国の法制度の動きを順に確認します。
国際機関の推計が示す規模
国際労働機関(ILO)などの2022年の推計では、2021年時点で世界の約2,760万人が強制労働のもとにありました。国連児童基金(UNICEF)とILOの共同推計では、2020年初めの時点で児童労働に従事する子どもは世界で約1億6,000万人でした。これらは特定の国だけの問題ではありません。農業、縫製、建設、電子機器の組立、家事労働など、私たちの暮らしに身近な産業の裾野に広がっていると報告されています。
数字が大きいほど、「自社には関係がない」と言い切る根拠は弱くなります。原材料の調達先を二次、三次と遡るほど、確認できない部分が増えるのが実情です。
各国の法制度は「確認する責任」を求める方向へ
海外では、企業に確認と開示を求める法制度が先行して整備されてきました。主な動きは次のとおりです。
- 米国のウイグル強制労働防止法は2022年6月に施行され、強制労働に関わる産品の輸入を制限しています
- ドイツのサプライチェーン・デューデリジェンス法は2023年1月に施行されました
- EUの企業サステナビリティ・デューデリジェンス指令(CSDDD)は2024年7月に発効しました
EUでは、2026年2月に公表されたオムニバスI指令(指令(EU)2026/470)によってCSDDDが改正されました。対象は従業員5,000人超かつ純売上高15億ユーロ超の企業などに絞り込まれ、加盟国の国内法化の期限は2028年7月26日、適用開始は2029年7月26日に延期されています。最新の条件は欧州委員会の公表で確認してください。
日本企業に直接の法的義務がなくても、EU域内で事業をする企業の取引先であれば、情報提供を求められる可能性があります。「法律の有無」ではなく「取引の流れ」で影響が決まる点に注意が必要です。
経産省ガイドラインで読む人権DDの流れ
実務の手順は、経産省ガイドラインに沿って整理するのが近道です。ガイドラインは国連指導原則などの国際的な枠組みと整合するように作られています。まず全体像をつかんでから、判断に迷いやすい2つの論点を見ていきます。
6つのステップ
ガイドラインが示す流れは、おおむね次の6段階で捉えると分かりやすくなります。
- 人権方針を策定し、経営層の関与のもとで社内外に示す
- 事業活動が人権に与える負の影響を特定し、評価する
- 負の影響を防止し、軽減する
- 取り組みの実効性を評価する
- 取り組みの内容を説明し、情報を開示する
- 被害を受けた人が声を上げられる窓口を整え、救済につなげる
ポイントは、最初から完璧を目指さないことです。ガイドラインは継続的に改善する姿勢を重視しており、すべてを一度に整える前提ではありません。
優先順位は「深刻度」で決める
サプライチェーン全体を同じ強さで調べるのは現実的ではありません。ガイドラインは、負の影響の深刻度(規模、範囲、是正の難しさ)と、発生する可能性の高さを踏まえて優先順位を付けるよう整理しています。たとえば次のような見方になります。
- 人の命や健康に関わる問題は優先度を高くする
- 一度起きると元に戻しにくい問題(強制労働や児童労働など)は優先度を高くする
- 影響を受ける人数が多い工程や地域を先に確認する
この「優先順位を付けてよい」という考え方は、リソースの限られた企業にとって大きな助けになります。
取引停止は最終手段として考える
問題が見つかったとき、すぐ取引を打ち切る対応は、かえって現場の労働者の立場を悪化させるおそれがあります。ガイドラインは、取引先に改善を働きかけて関与し続ける姿勢を基本にしています。取引停止は、改善が見込めない場合の最終手段という位置づけです。
取引先に対しては、一方的に要求を押し付けるのではなく、価格や納期などの自社の調達慣行も見直すことが求められます。無理な短納期や買い叩きが、取引先の長時間労働や過重労働を生む例があるためです。
日本の現場で見落とされやすい論点
人権DDというと海外の工場を想像しがちですが、日本国内にも点検すべき領域があります。
外国人労働者の雇用環境
国内の外国人労働者については、技能実習制度をめぐる課題が長く指摘されてきました。2024年6月には、技能実習に代わる「育成就労制度」を新設する法律が成立しました。施行は公布から3年以内とされています。制度が変わっても、採用時の手数料、パスポートの保管、労働時間といった個々の企業の運用が点検対象である点は変わりません。
自社の従業員とハラスメント
サプライチェーンの話に目が向くと、自社の足元が抜けやすくなります。長時間労働、ハラスメント、男女間の格差、障害のある人への配慮なども、人権の課題に含まれます。ガイドラインでも、自社内の従業員への影響が対象に含まれます。
国内の取引先とサービス提供先
製造業だけでなく、小売、IT、物流、サービス業も対象です。顧客データの扱いによるプライバシー侵害や、広告表現による差別なども、人権への影響として捉える視点が必要になります。
公開情報から見えるつまずきの傾向
企業のサステナビリティ報告や公開されている相談事例を読むと、取り組みが止まりやすいポイントには共通の傾向があります。特定の企業や投稿を指すものではなく、複数の情報から一般化した整理です。
方針だけ作って終わる
人権方針を策定して公表した時点で、満足感が生まれやすい傾向があります。しかし方針は入口です。現場の調達担当者が方針の意味を理解し、日々の判断に反映できなければ、実態は変わりません。方針の策定後に、研修や評価指標へ落とし込めているかが分かれ目になります。
質問票を送って終わる
取引先に自己申告のアンケートを送る方法は、取りかかりやすい手段です。ただ、回答が「問題なし」ばかりだった場合、本当に問題がないのか、聞き方が適切でなかったのかを判断するのは難しくなります。質問票は対話のきっかけと位置づけ、優先度の高い取引先とは直接話す場を設ける方法が広がっています。
窓口を作っても使われない
苦情処理の窓口を設けても、利用されない場合があります。言語が通じない、匿名で相談できない、相談したら不利益を受けるのではないかという不安がある、といった理由が考えられます。窓口の有無だけでなく、実際に使えるかどうかを点検することが大切です。
よくある追加質問
読み進めるうちに浮かびやすい疑問を、3つ取り上げます。
Q1 中小企業でも人権DDは必要ですか
ガイドラインは企業規模を問わず対象にしています。ただし、大企業と同じ体制を求めているわけではありません。自社の事業で最も深刻になりうる領域を絞り、できる範囲から始める進め方が想定されています。大企業の取引先として、質問票への回答を求められるケースが現実的な入口になります。
Q2 人権DDとCSRやESGはどう違いますか
CSRやESGは、環境・社会・ガバナンスを幅広く扱う枠組みです。人権DDは、その中の「人権」に焦点を当て、影響を受ける人の視点でリスクを特定する具体的なプロセスを指します。ESG評価の項目として問われることもあるため、両者は重なりながら役割が異なります。
Q3 自社で問題が見つかったらどう対応すべきですか
見つかった事実を隠さず、影響を受けた人への救済を優先して考えます。次に、再発防止の方法を取引先と話し合います。問題が見つかったこと自体より、見つけたあとの対応が問われるという考え方が、国際的な指針の基本です。専門的な判断が必要な場合は、弁護士や専門機関への相談も選択肢になります。
今日から試せる1アクション
大がかりな準備は要りません。今日、調達や購買に関わる担当者が試せる最小の一歩があります。自社が仕入れている原材料や製品の中から、「どこで、誰が作っているか」が答えられないものを1つだけ選び、取引先に産地と製造工程を尋ねてみることです。
質問の目的は、問題を指摘することではなく、状況を知ることです。回答が得られなかった場合も、「情報が把握できていない領域」が見えること自体が成果です。その1品目を、人権DDの最初の対象として記録に残してください。
聞き取りの結果は、ステップ2(負の影響の特定)の最初のデータになります。小さく始めて、次の品目へ広げていく進め方で十分です。
まとめ
人権DDは、法律で一律に義務付けられた手続きではなく、国連指導原則と経産省ガイドラインに沿って、企業が自ら点検を続ける取り組みです。国際機関の推計では、強制労働や児童労働は今も広い範囲に及んでいます。海外の法制度も、企業に確認と開示を求める方向に進んでいます。
日本企業にとっては、取引先を通じて要請が届くケースが現実的な入口になります。ガイドラインの6ステップに沿い、深刻度で優先順位を付ければ、限られた人員でも着手できます。方針、質問票、窓口はそれぞれ「作って終わり」になりやすいため、現場で使えているかを確かめる姿勢が欠かせません。
まず1つだけ、産地が分からない原材料を選んで、取引先に尋ねてみてください。
- 人権DDは、事業が人に与える影響を継続的に特定し、防ぎ、確かめ、伝える仕組みである
- 日本の経産省ガイドラインは法律ではないが、企業規模を問わず参照され、取引を通じて実質的な要請が届く
- 優先順位は深刻度と発生可能性で決め、取引停止は改善が見込めない場合の最終手段とする
- 方針・質問票・窓口は、現場で実際に機能しているかを点検することが大切である
- 最初の一歩は、産地が分からない原材料を1つ選んで取引先に尋ねることである
参考文献
- 経済産業省「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」(2022年)
- 外務省「ビジネスと人権」(2020年)
- 国連人権高等弁務官事務所「Guiding Principles on Business and Human Rights」(2011年)

